唐寅(左)と文徴明(右)/wikipediaより引用

中国

文徴明&唐寅の個性派コンビは中国蘇州の人気者! 人生はエンジョイやで!

西暦2020年は、中国のある偉大なる人物生誕550周年にあたります。

文徴明ぶんちょうめい唐寅とういんです。

才智あふれる文人――として複数のランキング上位にも入る文徴明と唐寅。

呉中四才子

祝允明しゅくいんめい(1460-1526)
唐寅とういん(1470-1523)
文徴明ぶんちょうめい(1470-1559)
徐禎卿じょていけい(1479-1511)

明四大画家

沈周ちんしゅう(1427-1509)
文徴明ぶんちょうめい(1470-1559)
唐寅とういん(1470-1524)
仇英きゅうえい(1494頃-1552)

それほどまでに素晴らしい人であれば、さぞかし人格高潔で、素晴らしくて、出世街道を邁進したんだろうなぁ……と想像したくなるところですが、このコンビは、なかなか個性的でして。

要領は悪かったり。トラブルメーカーだったり。なんだか変なエピソードがあるのです。

科挙にも合格できておりません。

日本でも愛されてきた、そんな名コンビ。550周年を祝して、その人生を振り返ってみましょう。

 

科挙なんてどうでもいい――それが蘇州の誇り

出世して官僚になりたいのであれば、何がなんでも科挙に合格しなければ!

中国では、長らくそう思われて来ました。

結婚祝い定番の縁起ものが「五子登科」(五人男児を産み、全員科挙に合格しますように)であったのですから、それはもう大変なことです。

「破天荒」という言葉の語源も、

「科挙合格者がいない荊州は、この天下において荒れ果てている……それを破った!」

という喜びの表現です。

破天荒という言葉が生まれた唐から、時代がくだりまして。

元王朝が倒れ、明王朝が成立したあと、明朝初代・洪武帝こと朱元璋しゅげんしょうは「科挙の結果」に不信感を抱きます。

「なんだこれは、おかしいだろ!」

朱元璋/wikipediaより引用

彼が不信を抱いたのは、あまりに江南地方の合格率が高かったからで、その原因はいろいろ考えられました。

北方の異民族が北部を支配し、戦乱により学識の地域差が生まれたことが大きい。

他にも洪武帝が不快感を募らせる理由はありました。

洪武帝が勝利をおさめた元末の最中、彼と激しく戦った人物がおりました。

張士誠ちょうしせいです。

彼は蘇州を本拠地とし、経済力と知識人の後押しによって、朱元璋を苦しめてきました。

張士誠/wikipediaより引用

復讐心が燃えたぎる朱元璋は、蘇州ごと大打撃を与えるような報復措置を実施。そのため蘇州のある江南の科挙合格者たちは、洪武帝の嫌な記憶を蘇らせたわけです。

蘇州側も、黙ってはいられない。静かな抵抗をします。明という王朝に対して軽蔑、不信感、反骨心を滾らせました。日本史で言えば、大阪人が真田幸村を応援し、徳川家康の墓を作るような気持ちでしょう。

蘇州には文化の香りと経済力があり、彼らは粘り強く、ソフトパワーによる復活を遂げます。

永楽帝の代に南京から北京へ遷都されても、どこ吹く風。自分たちの人生をエンジョイしたいと張り切りました。

「科挙に合格して、寒い北京くんだりで官僚をやるよりも、地元で楽しく生きた方がいいじゃない!」

「そうだよな〜!!」

「蘇州楽しい、最高!!」

人生をエンジョイしてこそ勝ち組である。そんな世界観が、当時の蘇州にはありました。

前述の四大画家の一人・沈周ちんしゅうは、まさしくこうした蘇州文人の先駆者。卓越した才能を求められながら、83年の生涯で一度も宮仕えをしないことが彼の誇りでした。

彼らは「市隠(町の隠者)」として人生をエンジョイし、優れた作品を残したのです。

 

公務員より文人ライフのほうが上! でも現実は厳しかった

「いやあ、お恥ずかしい。この私としたことが科挙に首席登第した挙句、トップ官僚になってしまいましたわ……」

どういう嫌味だ。
そう突っ込みたい、そんな蘇州出身者の人物に呉寛ごかん(1435-1504)がおります。

成化8年(1472年)、会試・延試にトップで合格したというスーパーエリートです。

明代の科挙

学校試(県試→府試→院試)

郷試(会場:省都貢院)

会試(会場:北京礼部貢院)

殿試(皇帝の目の前で受ける)

ゴール、官僚だ!

試験科目:経義(テキスト理解)、詩賦(詩作)、論策(政策論文)

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呉寛は、孝宗と武宗の太子時代に学問を教え、令部尚書という官僚最高の地位に上り詰めたのですから、凄まじいものがあります。

それなのに、先程のようなフザけたことを言うのですから「なんなの? ナメてるの?」とツッコミたくはなります。

科挙なんかどうでもいい――そう強がっていても、やはり出世ルートとしては存在する。張士誠時代の記憶が薄れてゆくと、やはり、そこを目指すようになってゆく。そこには本音と建前がありました。

では、呉寛が嘘をついていたのか?

というと、そうとも言い切れません。

彼の憧れは蘇軾、トンポーロウを作り上げたあの蘇東坡です。

天才・蘇軾(そしょく)のエンジョイ流刑66年! トンポーロウを産み出した生き方

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「官僚なんかやらないで、蘇東坡のようにグルメを楽しみ、自由自在に詩を詠み、書を極めたい。そういう願いもあったわけですよね」

贅沢の極みではありますが、勤め人よりスーパーニートとして文化を極めたかった。現代人でも理解できそうな悩みが、明代にもありました。

実際に、書家としての彼は完璧というわけでもありません。書体は極めて優れているものの、確かにちょっと硬すぎるという評価はあります。蘇州の知識人にはこういうタイプが多い。

王鏊おうごう(1450-1524)も、郷試、会試を主席合格、廷試探花(第三席)突破というこれまたエリートですが……。

「文辞翰墨(詩と書道)のことだけを考えたいのに!」と、門を閉じて引きこもりかけていたことがあるほど。

仕事しないで好きなことだけを極めたい! そんな悩みが、彼らにはありました。

他地域の人間からすれば【ふざけきった蘇州のあいつら】ということにもなりかねない。とはいえ、実際に作品がすごいので、高値で買ってしまう。そんな状況が生まれます。

文句つけるなら、もう科挙に受からなきゃいいでしょ!

好きなだけ書道でも絵でもやれば?
同人作家で食っていけば?

そう突っ込みたくなりますかね?

実際、そんな生き方を実現する人物が出てくるのですから、これまたおもしろいのです。

 

官僚・文さんの次男と、商人・唐さんの長男が出会った

スーパーエリートの呉寛には、彼と同じ歳に進士になった友人・文林(1445-1499)がおりました。蘇州・文洪(1436-1479)の子として生まれ、猛勉強の末、科挙に合格したのです。

そんな文林には、悩みがありました。次男のことです。

「うちの次男の壁なんだけど、みんなアホの子って言うんだよね……」

8~9歳になるまで、まともに口もきけない。周囲はそんな次男をこう思っていました。

「うーん、お父さんに似なかったんですね、残念ながら、この子はちょっと……」

そういう声があっても、文林はこう信じています。

「いや、この子はね、才能がきっとあるんです。いつか花開く!」

そんな次男はやっと、おっとりと言葉を話し始めます。11歳のとき、塾に入れてみるとすさまじい暗記力を発揮しました。彼は、よりも字の方が通りがよいので、本稿は“文徴明”で統一します。
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