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【ディアーヌ・ド・ポワチエ】
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寵姫の栄光とは儚く、突如、終わるもの
王の寵姫の栄光とは、儚いものです。
王の寵愛を失えば消えてしまう。
ですから彼女たちは魅力を磨き、捨てられないように努力を惜しみません。19も年上のディアーヌにも、そんな時がいつ訪れてもおかしくはありません。
しかしアンリは生涯ディアーヌを愛し続けました。
彼女の栄光の時が終わったのは、アンリが突然崩御してしまったからです。
1559年、40歳のアンリは馬上試合に出場します。
この試合は、アンリの娘である王女のエリザベートとスペイン王フェリペ二世、フェリペ二世の従弟サヴォワ公エマヌエーレ・フィリベルトとアンリの妹であるマルグリットとの婚約を祝う盛大なものでした。
観客席には王妃カトリーヌ、花嫁となるマルグリットとエリザベート、王太子フランソワの妃であるスコットランド女王メアリ・スチュアート、そしてディアーヌが座っていました。
それぞれ思い思いに着飾った貴婦人たちの前で、試合が繰り広げられました。
試合の四日目、悲劇が襲います。
アンリの対戦相手モンゴメリー伯爵の槍が折れ、王の兜の隙間から飛び込んで右目の近くに突き刺さったのです。
馬から転げ落ち、アンリは意識不明となりました。
アンリはディアーヌの名を呼びますが、カトリーヌは夫から愛人を遠ざけました。ディアーヌは死にゆくアンリの側に行くことすら許されなかったのです。
7月10日、アンリは崩御。まだ40という若さでした。
ディアーヌはアンリの葬儀への参列すら許されませんでした。
白と黒の羽根飾り、DとHの紋章が剥がされた葬列を見て、ディアーヌはこれから起こるであろうことに身震いし、死すら覚悟しました。
カトリーヌはアンリがディアーヌに贈ったもののリストを作成していて、夫が亡くなると即座にその返還をディアーヌへと迫ったのでした。
もっとも、カトリーヌからすれば、ディアーヌこそが夫を寝取った泥棒猫でしょう。
カトリーヌが返還を迫ったものの中には、当然のことながら壮麗なシュノンソー城も含まれていました。
ただ取りあげるのではなく、カトリーヌは陰湿な手を使います。
ショーモン城を買い取り、ディアーヌのシュノンソー城と交換させたのです。
美しい外観からは想像も付かぬおぞましき呪詛
ショーモン城はカトリーヌの命を受けた占い師たちが滞在したものでした。
そこには、
・煤けた部屋
・祭壇
・鏡
・あやしげな魔術用の杖や錬金術の道具
・毒薬の入った小瓶
・小動物のミイラ
・不気味な魔術書
などなど、カトリーヌがディアーヌの呪詛に使ったものがそのまま残されていたのです。
ディアーヌはショーモン城の改築をするものの、そこで暮らすことはありませんでした。
彼女は亡くなるまで、夫のプレゼ伯爵の遺産であるアネ城に住みました。
そして1566年、ディアーヌは67歳でその生涯を終えました。
この歳になっても美貌の名残をとどめていた彼女の死因は、金のエリクサーによる金中毒死。
晩年まで若さと美を追究した彼女らしい死因と言えるかもしれません。
ディアーヌの遺骸はフランス革命中共同墓地に放り込まれ、2009年に元の場所に改葬されるまでそのままでした。
肉体は朽ち酷い扱いを受けても、ディアーヌの姿は絵画や彫刻の中に残り、その美貌を伝え続けています。
そして彼女とアンリの愛の証である絡み合うDとHの意匠は、フランス各地の城に残され、不滅の思いを伝えているのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
石井美樹子『図説 ヨーロッパ 宮廷の愛人たち (ふくろうの本/世界の文化)』(→amazon)