新野左馬助親矩

新野左馬助親矩の版画と左馬武神社道標photo by 戦国未来

井伊家

今川から井伊へ目付家老として送り込まれた新野左馬助親矩 最終的に井伊を救う

親兄弟が血で血を洗い、仁義や恩などの理性は存在しない。

そう考えても仕方のないほど、全国至る所で殺伐とした光景が広がっていた戦国時代――そんな戦乱の世にあっても危険を承知で人助けに尽力する武人も皆無ではなかった。

いや、むしろ、後世に名を残す武将や大名家には少なからず忠臣がおり、徳川家康率いる三河武士の結束などは今も語り継がれている(勝者による美談の歴史だとしても……)。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』に登場していた数多の戦国武将の中で、新野親矩はまさにその人。

同ドラマでは苅谷俊介氏といういぶし銀の俳優が演じた気骨の武将であり、後の徳川四天王・井伊直政が生き残るには彼の尽力なくしてありえなかった。

本稿では、永禄7年(1564年)9月15日に亡くなった新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)にスポットを当ててみたい。

※永禄8年(1565年)12月20日の死亡説もあり(詳細は後述)

 


太原崇孚の提言により対井伊家の方針変更

新野親矩の生年や場所について、詳細を示す史料はない。

実父は上田民部で、新野氏の養子になったといい、新野氏の居館は新野新城付近にあったという。

現在、ここの城山は採土のために削り取られ、居館跡も城跡もほぼ残っていない。

新野新城

新野新城跡

親矩の運命が動き始めたのは、今川氏の宗主が今川義元に替わり、軍師・太原崇孚の指示が出されてからだ。

これまで井伊氏に対して高圧的だった今川氏は急接近して、自らの傘下に引き入れ、より密接な関係を築こうとする。

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これを井伊氏から推し進めたのが、井伊家の筆頭家老・小野政直であり、両者は以下の3項目で関係強化を図った。

井伊直平(直虎の曽祖父)の娘を人質として今川義元に差し出し、義元の側室とする

②今川義元は井伊直盛(直虎の父)の烏帽子親になり、今川庶子家・新野氏の娘(新野親矩の妹あるいは娘)と結婚させる

③今川氏庶子家の新野親矩は、井伊氏庶子家・奥山氏の娘を正室に迎える

実は井伊家の内部には、今川氏と戦って敗れた経験を持つがゆえに彼らの傘下入りを嫌う一派もあった。

その筆頭が井伊直満(井伊直政の祖父)・直義兄弟であり、この2人は親今川派・小野政直の報告によって誅殺される。

こうした場合、普通は親子はもちろん、その一族も責めを負うことになるが、前宗主の直平や現宗主・直盛は誅殺されていない。

上記のように直平と直盛の2名は今川氏と深い関係があり、小野政直も「井伊直満・直義の反抗はあくまで2名だけのクーデターであり、直平や直盛は全く関係ない」と訴えている。

もしかしたら「助けてやった」と井伊家に恩を売る作戦だったのかもしれないが。

その一方で、直満の子・亀之丞(井伊直親・井伊直政の実父)には殺害命令が出されている。

亀之丞は直虎の許婚者であり、何もなければ二人が夫婦になって井伊家を継ぐハズだったが、命を狙われたことにより亀之丞は信州へ逃亡した。

これは息子の小野政次を直虎と結婚させようと考えた政直と今川の共謀だったという説もある。

 


殺害命令の下された直親親子の助命嘆願

井伊直満・直義を誅殺したとはいえ、まだまだ安心はできぬ――。

そう考えた今川が次に取った策が新野親矩を目付家老として、井伊谷へ送り込むことだった。

結果的にこの人事が後に井伊家を救うことになり、さらには今川家崩壊にも間接的に関わるのだが、ともかくこの段階で主君より命令を受けた親矩は、嫡男・甚五郎(功刀君章『井伊年譜』では「新五郎」)に家督を譲り、井伊谷に移り住む。

屋敷は、現在の井伊谷小学校の西側にあった。

一方、亀之丞も信州からの帰国を果たし、元服して井伊家24代宗主・直親となる。

井伊家系図

父を殺された恨みからであろう。

直親は反今川・反小野の気持ちが固く、「鹿狩りに行く」と言っては城を出て、徳川家康と連絡を取り合っていた。

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これにいち早く反応したのが小野政次(ドラマでは高橋一生さん)である。

小野家では政直が病死し、息子の政次が跡を継ぎ、今川氏真に報告をあげた。

そして今度は、直親・虎松(後の井伊直政)親子に殺害命令が下されるのである。

この時、駿府へ出向き、必死に助命を願い出たのが他ならぬ新野親矩だ。

親矩の必死の説得により、今川氏真もいったんは直親親子の殺害命令を取り消した。しかし最終的に、井伊直親は駿府へ弁明に出向く途中で今川家臣によって殺されてしまう。

もしも直親が駿府で氏真に会って弁明を済ませてしまったら、しばらく討つ機会を逸してしまう――おそらく今川や小野はそう考えたのであろう。そのため駿府城へ到着する前に襲いかかったと考えるのが自然だ。

もしも井伊直親が、親今川派の小野政次と仲良くし、今川庶子家の娘と結婚していたら?

桶狭間の戦い】の直後に今川氏真がすぐに弔い合戦をして織田信長を倒し、駿河から尾張までを領する大名になっていたら?

そうすれば井伊直親は誅殺されずにすんだかもしれないが、歴史に「たら・れば」は無い。

結局、井伊直親の死は「家臣の暴走」で片付けられた。

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