竹千代(徳川家康)とは? 不遇の時代を耐えた幼き頃の懊悩と鷹狩の話 【おんな城主直虎人物事典⑲】

 

武田信玄は二十一歳。
上杉謙信は十二歳。
織田信長は八歳。
後の平民太閤、豊臣秀吉はしなびた垢面(こうめん)の六歳の小童だった。
この年、天文十年──
(山岡荘八『徳川家康』)

戦国時代が1467年「応仁の乱」に端を発したとするならば、その終焉が1603年であったことは皆さんご納得されるであろうか。
1615年大坂の陣をもって完了とする考え方もあるかもしれないが、いずれにせよ日本が中世に幕を閉じ、近世への舵を切ったそのとき、中心にいたのは武田信玄や上杉謙信、織田信長など時代を代表するツワモノではなく徳川家康であった。
ホトトギスの川柳(※1記事末に全表記)に示されるように、徳川家康の一生はやはり「忍耐」に集約されるのだろう。
歴史に刻まれる始まりが幼年期の人質生活であったことからして、常人には得難い感性を己の中に醸成させていったと想像できる。
そこで本稿『おんな城主 直虎』人物事典No.⑲では、2017年の大河ドラマでも主人公の井伊直虎とは切っても切れない徳川家康の「竹千代」時代と、普段あまり語られることのない「鷹狩」にスポットを当ててみたい。
家康が生まれた天文十一年、井伊直虎は7歳であった。
※彼女の年齢については諸説あるがここでは1535年生まれ

 

竹千代が生まれたとき鳳来寺の真達羅大将が消えた!?

徳川家康は岡崎城(愛知県岡崎市)で生まれた。幼名は前述の通り「竹千代」。
父は岡崎城主の松平広忠(安祥松平家第5代宗主・後に松平宗家8代宗主)で、母は水野忠政の娘・於大の方(伝通院)である。

2人はなかなか子宝に恵まれず、鳳来寺へ子授けの祈願に行くと、「寅年、寅月、寅日、寅の刻」に竹千代が生まれ、同寺の「真達羅(しんだら)大将」が消えたという。真達羅大将とは、本尊・薬師如来(峯之薬師)を守る十二守護神の一人(寅神)だ。
家康の死後、境内には「鳳来山東照宮」が建てられ、参道に阿吽の狛犬ならぬ狛虎が置かれている。
※なお鳳来寺は、井伊直政が虎松と呼ばれていた時期に匿われていた寺でもある

参道の阿吽の虎(鳳来山東照宮)

参道の阿吽の虎(鳳来山東照宮)

竹千代という名は、連歌の会「夢想之連歌」で詠まれた「めぐりはひろき園のちよ竹」に由来する。
「徳川家祖廟」(松平初代親氏らの廟所)、渡宋天満宮、三州大浜東照宮がある稱名寺(碧南市築山町)で行われた催しであり、いずれも同家にとって縁の深い場所だ。

「竹千代」命名の寺・稱名寺(碧南市)

「竹千代」命名の寺・稱名寺(碧南市)

武家の長男として、期待と不安が予期されたであろう竹千代は、6歳にして最初の試練が始まった。

三河国の西から攻め入ってきた織田信秀(信長の父)に対抗するため、宗主・松平広忠が援軍を求めた相手は遠江駿河の支配者・今川義元であった。
──人質をよこせば、援軍を送る。
義元の要求に応じた松平広忠と竹千代は、ここで予期せぬ不幸に遭遇する。
駿府に送り届ける途中、田原城主・戸田康光によって奪還され、そのまま敵方の織田信秀へ売られてしまったのだ。

竹千代は、熱田の豪商・加藤図書助順盛の屋敷「羽城」に幽閉された。
現在の名古屋市熱田区伝馬である。
戸田氏はなぜ竹千代を奪ったのか。原因は、過去に今川義元に攻められたことだというが、その田原城攻めで井伊直宗(井伊直盛の父にして井伊直虎の祖父)が討死したというから、やはり井伊家とも因縁浅からぬ。

 

太原雪斎が織田信広を生け捕りにして、竹千代と人質交換

天文18年(1549)年3月6日、松平広忠が死んだ。
このとき8歳になっていた竹千代は、織田家での人質生活が続いており、父の死に目に会うことは出来ず。
にわかに事態が動き出したのは、今川義元の軍師・太原雪斎がキッカケであった。
僧侶(臨済寺二世住職)でありながら、安祥城を陥落させた雪斎は、織田信広(織田信秀の側室の子・織田信長の庶兄)を生け捕りしにし、笠覆寺(名古屋市南区笠寺上新町)で竹千代との人質交換を成し遂げたのである。

居城の岡崎城には、今川家臣が城代として入城し、三河国は実質的に今川氏の属領となった。まだ8歳の竹千代は、駿府の松平屋敷(通称:竹千代屋敷or人質屋敷)で暮らすことになる。

竹千代は、駿府の松平屋敷に入るとすぐに礼服に着替え、少将宮で武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられている。
後の天下人らしく、字面からも幼き頃から利発そうな雰囲気が伝わってくる。あるいはこれが武家の子息の覚悟だろうか。

安祥城跡(安城市)

安祥城跡(安城市)

 

「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」

駿府の松平屋敷は、孕石(はらみいし)屋敷と北条屋敷の間にあったという。
孕石屋敷には今川家臣の孕石元泰(はらみいし もとやす)がいた。竹千代が飼っていた鷹が、獲物や糞を孕石屋敷に何度も落とし、その度にわびに行くと、「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」と言って竹千代を叱ったという。

竹千代は、家康になってもその屈辱を覚えていた。
高天神城の落城後、切腹させられた唯一の城兵がこの孕石元泰であり、このとき初めて「わしもお前の顔を見るのは飽き飽きだ」と言い返したという。孕石屋敷は、徳川家臣の板倉屋敷になった。
「鷹それて孕石主水が家の林中に入りければ、そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ、「三河の悴にはあきはてたり」といふをきこしめしけるが、年經て後、高天神落城して孕石生擒に成て出ければ、「彼、わが尾張に在し時、我を『あきはてたり』と申たる者なれば、いとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよ」とて、遂に自殺せしめられしなり。」(『東照宮御實紀』(附錄卷一)

一方、北条屋敷には、人質として小田原から送り込まれていた北条氏規がいた。
氏規は、寿桂尼の孫(北条氏康と寿桂尼の娘の子)でもあり、よく油山温泉へ湯治に行ったとあり、「人質」というよりも「祖母預け」とも考えられている。

今川氏の竹千代に対する待遇も、従来は「人質」と考えられていたが、暗い座敷牢に幽閉されていたわけではない。最近は「岡崎城主と考えられて優遇され、太原雪斎に学ばせた」とか「将来の岡崎城主=三河領主になるための“政務見習い”として預けられた」とする説すら出てきている。
ただ、松平衆(三河衆)の扱いは悲惨だったようで、『東照宮御實紀』には、「三河国は義元の思うがままで、合戦において、松平衆は、先鋒(最も早く戦い始め、退却時は最後尾になる過酷な役)にさせられた」という。
「十一月廿二日、竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少將宮町といふ所に君を置まいらせ、岡崎へは駿河より城代を置て、國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戰の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる」(『東照宮御實紀』)

なお、竹千代にも当然ながら祖母(源応尼のちの華陽院)がいて、両親が離婚した3歳の頃は度々面倒を見てもらっていた。今川での人質時代にも、病気を患ったときには祖母に看病してもらったという話もある。
また、竹千代は、臨済寺の太原雪斎に学ぶこともあったといい、臨済寺(当時の寺は焼失)には、江戸時代に復元された「竹千代手習いの間」がある。

臨済寺(静岡市葵区大岩町)

臨済寺(静岡市葵区大岩町)

 

増善寺の和尚に連れられ、コッソリと父の墓へ

元服して竹千代から元信となった翌年、「父・松平広忠の墓参」という名目で、岡崎への里帰りを許された。
公式には、これが初の墓参だとされているが、別の説もある。

増善寺文書や可睡斎文書には、竹千代が増善寺(静岡市葵区慈悲尾)の等膳和尚に「岡崎へ墓参に行きたい」と告げると、和尚が竹千代を藤篭(増善寺境内の案内板には「葛篭」とある)に入れて背負い、持舟湊(現・用宗港。増善寺境内の案内板には「清水港」とある)まで運んで密かに実現させたとある。

徳川家康公と増善寺の関係(増善寺)

徳川家康公と増善寺の関係(増善寺)

この縁で、等膳和尚は、可睡斎(静岡県袋井市)の住職となり、駿河・遠江・三河・伊豆4ヶ国の曹洞宗を統括する僧録の位を得たという。
大林寺(岡崎市魚町)の松平広忠の墓の横に奇妙な形の石が置かれている。

大林寺の獅子頭石(岡崎市)

大林寺の獅子頭石(岡崎市)

案内板には、「獅子頭の石 徳川家康公が八才の時、広忠の廟参の時に、納めたものと伝えられている。」とある。

 

初恋の相手は誰? 鶴姫とも亀姫ともお田鶴の方とも

松平次郎三郎元信は、次に「松平蔵人元康」と改名した。
「信」は「信長」に通じるのでこれを排し、尊敬する祖父・松平清康の「康」に替えたという。

竹千代(元信・元康)の駿府での人質生活は、8歳から19歳までであった。
今で言えば、小学2年生から大学2年生までである。その間、ごく普通の青少年らしく初恋もあったという。

 

竹千代初恋の相手は、鶴姫(瀬名姫・今川義元の姪で後の築山殿)とも、亀姫とも、お田鶴の方(引馬城主・飯尾連龍室)ともいう。

16歳のときに、今川義元のとりなしで瀬名姫と結婚。
井伊家の史料では、瀬名姫が井伊直平の孫であり、直平と昵懇の間柄であった松平広忠が相談して婚姻を勧めたとあるが、このとき広忠は既に他界している。
「竹千代君、御とし十五にて、今川治部大輔義元がもとにおはしまし、御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義廣に作る)、理髪し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郎三郎元信」とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜、親永が女をもて北方に定めたまふ。後に「築山殿」と聞えしは此御事なり。」(『東照宮御實紀』)

そして1560年、今川、徳川、さらには井伊一族の運命を変えた大事件が起きる。
「桶狭間の戦い」での今川義元の討死だ。

結果的に織田信長と今川義元が雌雄を決したこの一戦。当時の井伊家宗主・直盛と共に先鋒を務めた松平元康は、敗戦後、岡崎へ帰り大樹寺の先祖代々の墓の前で自害(殉死)しようとした。直盛はすでに殉死している。

大樹寺(岡崎市)

大樹寺(岡崎市)

しかしここで登誉上人に「厭離穢土・欣求浄土」と励まされ、自害を思いとどまったという。

穢れた国土を嫌って離れ、清浄な国土を好んで求めよ。自分の欲望のために戦っているから、国土が穢れきっている。領民のために、平和のために戦うのであれば、必ず仏の御加護を得て事を成すであろう。天下泰平を願った松平親氏の血をひくそなたであれば、平和な世に変えられる――「厭離穢土・欣求浄土」とは、そんな意味である。

なお、このとき岡崎城は今川方の飯尾乗連、二俣持長、山田景隆の3人が城代であったが、彼らが城を捨てて逃げたので、元康は、
──捨てられた城ならば、拾おう。
と言って城へ入り、岡崎城主となった。

「駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、「捨城ナラバ広ハン」ト仰有て、城え移ラせ給ふ。」(『三河物語』)

 

寿桂尼のいなくなった駿河へ信玄と共に侵攻す

元康は、清洲城(愛知県清須市朝日城屋敷)で織田信長と「清須同盟」を締結し、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「家康」(「家」は源義家の「家」という)と改名。家臣が分裂して戦った三河一向一揆を鎮圧すると、新田氏流の「世良田氏」、あるいは、「得川氏」だとして、苗字を「徳川」に変えた。
「足利第二の本拠地」と言われる三河国で、新田氏と名乗ることは勇気がいる行為である(その後、官位を得るために藤原家康、征夷大将軍になるために源家康と改名している)。

更に寿桂尼が亡くなると、農閑期を待って武田信玄の駿河国(今川領)侵攻と同調して、遠江国(今川領)へ侵攻。今川氏真は、掛川城(静岡県掛川市掛川)に逃げ込んだが、家康に攻められて開城し、戦国大名としての今川氏は滅亡した。

家康は、遠江国府や守護所が置かれた政治都市・見付(天竜川の東。現・磐田市)に新しい居城(城山城)を築いていた。
しかし信長に、天竜川が増水すると援軍が渡れないとして「異見」されて工事を中止し、経済都市・引馬に浜松城を築く。「引馬」は戦に負けての退却を意味するので縁起が悪いとして、「浜松庄」から「浜松城」と名付けられた。
※なお岡崎城は嫡男・信康に譲渡している。

「若き日の徳川家康公」像(浜松城)

「若き日の徳川家康公」像(浜松城)

 

「武田信玄など怖くないから、浜松から逃げない」は若さゆえ?

今川領(遠江・駿河両国)への侵攻時、武田信玄と徳川家康との間には、こんな密約があったとされる。

「大井川を境として、東(駿河国)を信玄が領し、西(遠江国)を家康が領する」

ただし徳川氏側の史料だけで武田氏側には残っておらず、当時の力関係からすると「天竜川を境として、東(駿河国と東遠・中遠)を信玄、西(西遠)を家康が領する」とするのが妥当だったとの見方もある。
いずれにせよ信玄の西進にとって邪魔だったのは間違いなく、その後、徳川軍(偵察隊)が天竜川を越えたことで信玄の怒りを買い、「一言坂の戦い」が勃発。それが引き金となって「三方ヶ原の戦い」となったというが、正しい原因や主戦場については今後の研究が待たれている。

ちなみに徳川家康は「武田信玄と戦って勝つか負けるかは天運である」と言いながら、自身は勝つと信じていたようだ。
織田信長が「徳川領と武田領の間に今川領という壁が無くなった。危ないから浜松から岡崎まで後退するがよい」と助言すると、徳川家康は家臣に対し、「武田信玄など怖くないから、浜松から逃げない」「武田信玄を怖がるような者は武士として失格。武士をやめた方がいい」と言ったという。若さゆえの強気、奢りが感じられる言葉である。

「是月信長使ヲ濵松ヘ来シ、神君ヘ申サレケルハ、「濵松ノ城ハ信玄カ領国ト近ケレハ居住ニ悪カルヘシ。岡崎ヘ移リ君給ヘカシ」トアリケレハ、神君御返答ニ、「懇ナル御使固ニカタシケナキユトナリ、居住ヲ移スコトハ、遅カラス」ト仰遣サル。使帰テ家臣ニ、御物語アリテ、笑テ仰ラレケルハ、「信長、何言ヲイヒコサレケルニヤ。我、モシ、濵松ヲ去ラハ、刀ヲ蹈折テ、武士ヲヤムヘシ、信玄カ勢畏ルヘキコトナラス」トノ給ケリ。」(林信篤・木下順庵他編『武德大成記』)
【大意】 元亀二年(1571)7月、織田信長は、使者を浜松(城)へ遣わして徳川家康に「浜松城は武田信玄の領国に近いので、住むにはよくない。岡崎(城)へ戻りなさい」と言うので、徳川家康は、「ご親切なご助言、かたじけない。早々に戻ります」と(使者に)伝えた。使者が帰ると、徳川家康は(家臣たちに向かって)話をされた。笑いながら「信長が(わざわざ使者をよこしてまで)何を言うかと思ったわ。浜松を離れるくらいなら、刀を足で踏んで折って、武士を辞めるわ。武田信玄など恐れてはいない」と申された。

三方ヶ原古戦場(推定地)の石碑(浜松市)

三方ヶ原古戦場(推定地)の石碑(浜松市)

 

虎松こと後の井伊直政は1575年から家康に仕え始める

さて、家康が浜松城を居城としたのは、元亀元年(1570年)6月(1月説もあり)から天正14年(1586年)の17年間で、年齢で言えば、29歳から45歳の青年期から壮年期にかけてとなる。
この間の大きな出来事は、上述の「三方ヶ原の戦い」以外に、
・「長篠の戦い」で徳川・織田連合軍と共に武田軍を撃破
・正室である築山殿の自害(佐鳴湖畔)と嫡男の信康自害(二俣城)
・「本能寺の変」(織田信長討死)と「神君伊賀越え」
・「小牧・長久手の戦い」で豊臣軍を撃破
などがある。

設楽ヶ原の馬防柵(新城市)

設楽ヶ原の馬防柵(新城市)

佐鳴湖畔の太刀洗の池(浜松市)

佐鳴湖畔の太刀洗の池(浜松市)

信康の墓がある清瀧寺(浜松市天竜区二俣町二俣)

信康の墓がある清瀧寺(浜松市天竜区二俣町二俣)

家康の浜松在城時代における井伊家の特筆すべき出来事は、何と言っても、井伊直親の遺子・虎松が天正3年(1575)2月15日の初鷹野(その年の最初の鷹狩)において、家康にお目見えしたことである。

このとき家康は、虎松に「井伊万千代」という名を与えて井伊家を再興し、300石与えて小姓とした。

「神君伊賀越え」(天正10年(1582)6月)で家康の帰国に貢献を果たした万千代は、その活躍により「孔雀尾具足陣羽織」(与板歴史民俗資料館蔵)を賜り、元服後「直政」と名乗った。

そして迎えたのが「小牧・長久手の戦い」(天正12年(1584)3月)である。
後に戦場で恐れられる「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」の初陣で、豊臣秀吉を相手にした戦いだった。

 

生涯1000回も行ったという鷹狩は相当ハードなトレーニング

慶長10年(1605年)、徳川家康は息子・秀忠に将軍職を譲って隠居、1586~1590年に過ごした駿府城に住んで「大御所」と呼ばれた。

徳川家康像(駿府城本丸跡)

徳川家康像(駿府城本丸跡)

徳川家康は、鷹狩が大好きで、生涯、約1000回行ったとされる。

鷹狩は、ときに「鷹を放つだけのノンキな遊び」と勘違いされることもあるが、実際は自身も山野を駆け回る激しい運動を伴うものであり、健康の保持に役立つと共に、戦の訓練にもなったという。

「また常に人に御物語ありしは、『おほよそ鷹狩は遊娛の爲のみにあらず。遠く郊外に出て、下民の疾苦、土風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し、手足を輕捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのづから病など起ることなし。その上、朝とく起出れば、宿食を消化して。朝飯の味も一しほ心よくおぼえ、夜中となれば、終日の倦疲によて快寢するゆへ、閨房にもをのづから遠ざかるなり。これぞ第一の攝生にて、なまなまの持藥用ひたらんよりはるかにまされり』との仰なり。されば御好の深くおはしませしは、元より遊畋に耽らせたまふにもあらず。 一 つには御攝生のため、一つには下民の艱苦をも近く見そなはし、山野を奔駈し身躰を勞動して、兼て軍務を調練し給はんとの盛慮にて、かの晋の陶侃といへる が、甓を運びしためしおもひ出て、いとかし こし。」(『東照宮御實紀』(附錄卷廿四))

【大意】 家康公は、常々人に「そもそも鷹狩とは、遊びというだけではない。城下町を出て、郊外へ行けば、領民の苦しみを知り、その土地の風土を理解することにもなる。筋肉を動かすことは、手足の動きを軽くする。風に負けず、寒さや暑さにも負けずに野を駆け回ることにより、自然と健康になって、病気にかかることもなくなる。その上、朝早く起きれば、消化もよくて、朝食が一層美味しくなり、夜は疲れてぐっすりと眠られるので、閨房からも自然と遠ざかり、精力を使って寿命を縮めることも無くなるものである。鷹狩こそ健康保持の最大の秘訣であり、中途半端に薬を飲むことよりも遙かに優れている」とお話になられていた。鷹狩は、健康保持、領民の視察、軍事訓練も兼ねているという。この話を聞いて、中国東晋時代の武将・陶侃(259-334)が、毎朝夕に百枚の甓(敷瓦)を運んで体力を鍛えて有事に備えていたという故事を思い出した。家康公は、実に賢いお方である。

山西の田中城から見た藤枝アルプス

山西の田中城から見た藤枝アルプス

御成街道(狩場から田中城(平島口)への道)

御成街道(狩場から田中城(平島口)への道)

田中城平島木戸跡(藤枝市)

田中城平島木戸跡(藤枝市)

駿府城にいる時の狩場は、「山西」(駿府城の西の連山(通称:藤枝アルプス)を越えた焼津市・藤枝市)であった。 「徳川家康鷹狩り等田中城渡御一覧表」によると、記録に残る 田中城渡御は33回だが、実際はもっと多いと思われる。

江戸時代、田中城内へ通じる木戸口は東西南北の4つ(東の平島口、西の清水口、南の新宿口、北の藤枝(大手)口)。

そのうちの平島口から平島村・上当間村を通って鬼島村の八幡橋で東海道と合流する道を「御成街道」という。江戸時代の田中城絵図には「御成道」とあり、「此木戸より八幡橋迄拾六町拾間」(約1.76km)とある。道幅は9尺(2.7m)で、道の両側は高さ4尺5寸(1.8m)の土塁で固められ、松並木があった。

※平島口は田中城の正門であったが、初代田中藩主・酒井忠利は、藤枝宿から城内に通じる大手口を開設し、東海道と田中城を最短距離で繋いた。これにより、大手口が田中城の正門となり、平島口の城門(平島一の門)は「開かずの御門」となった。

元和2年(1616)1月21日、いつものように山西へ鷹狩に行った家康は、休憩所の田中城(静岡県藤枝市西益津)内の清水御殿で鯛の天ぷらを食べると、食中毒にかかり、4月17日の巳刻(午前10時頃)、駿府城で没した(地元では、死因は食中毒ではなく、鉄砲で撃たれたとしている)。

享年75。この時、鳳来寺に真達羅大将が戻ったという。

 

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井伊直虎の生涯まとめ】大河ドラマ『おんな城主 直虎』を史実からスッキリ解説!
①「おとわ」が次郎法師を経て井伊直虎そして祐圓尼になるまで
井伊直盛とは? 主人公・直虎の父にして桶狭間に没した悲劇の武人
新野千賀(ちか)とは? 敵対していた一族の娘が直虎を産み、井伊家も救う
井伊直平とは? 一族の血を直虎から直政へと引き継いだ老練の将
南渓和尚とは? 井伊家を救った軍師的僧侶の知謀
井伊直親とは? 直虎の許婚者かつイケメン若武者が歩んだ流浪の道
小野政次とは? 井伊家との権力争いの末に勝ち取った34日間の天下
⑧井伊直親の妻・ひよ(しの)とは? そして彼女は井伊の赤鬼を送り出す
瀬戸方久とは? 今川氏真&徳川家康に取り入ったヤリ手商人
井伊直満とは? 赤鬼・井伊直政の祖父は非業の死を遂げる
小野政直とは? 井伊家乗っ取りを実行した親子の真意を考える
新野左馬助とは? 井伊の血脈を後世に残した気骨の武人
奥山朝利とは? 赤鬼・井伊直政の外祖父は桶狭間と共に没落するも……
中野直由とは? 宗主代行の重責を担った井伊庶子家の筆頭家系
龍宮小僧とは? 久留女木の棚田に伝わる河童伝説
今川義元とは? 井伊氏の命運を握った海道一の弓取り
今川氏真とは? 人質だった家康を頼り、親の仇・信長に蹴鞠を披露する不思議
寿桂尼とは? 直虎が手本にすべき女戦国大名はすぐそばにいた
竹千代(徳川家康)とは? 不遇の時代を耐えた幼き頃の懊悩と鷹狩の話
築山殿(瀬名姫)とは? 悪女とされる家康の正妻が夫へ送った最後の手紙
井伊直政とは? 徳川四天王にまで昇りつめた赤鬼の成り上がり伝説
傑山宗俊とは? 龍潭寺の住職を通じて知る当時の寺院と僧兵事情
番外編 話題の井伊直虎男性説~実は2つの可能性が考えられる!?
昊天宗建とは? 井伊の赤鬼を陰で支えた長刀の名人は僧侶としても大成す
佐名と関口親永(築山殿の両親) 井伊直平の娘・佐名はなぜ井伊家を恨んだか?
㉕井伊直政の姉・高瀬姫と川手良則夫妻 あの武田信玄にも評価された武将に注目してみる
㉖謎の山伏・松下常慶(安綱)とは? 家康のボディガードも務めたれっきとした武士

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 

【記事末資料】

※1 ホトトギスの川柳
◆松浦清『甲子夜話』(五十三)(1821~1841)

夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公  大権現様
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

◆根岸鎮衛『耳袋』(巻の八)「連歌その心自然に顯はるゝ事」(1814)

古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、
鳴かずんば殺してしまへ時鳥
とありしに、秀吉、
なかずともなかせて聞かう時鳥
とありしに、
なかぬならなく時聞かう時鳥
とあそばされしは神君の由。自然とその御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、その自然をあらはしたるが、紹巴もその席にありて
なかぬなら鳴かぬのもよし郭公
と吟じけるとや。

◆徳川家康公御遺言(『德川實紀』)

金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。大御所御病床に召て。御大漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戶增上寺にて行はれ。靈牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都には南禪寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拜せしむべしと命ぜらる。神龍梵舜駿府に參り。まうのぼり御けしきうかゞひ奉る。(「台德院殿御實紀卷四十二」「國師日記。舜舊記」「元和二年四月二日」)

徳川家康遺訓(駿府城)

徳川家康遺訓(駿府城)

人の一生は重荷を負て遠き道を行くか如し急くへからす不自由を常と思へは不足なし心に望みおこらは困窮したる時を思い出すへし堪忍は無事長久の基怒は敵と思へ勝つ事はかり知りて負くる事を知らされは害其の身に至る己を責て人をせむるな及はさるは過きたるよりまされり。

※深田正韶の随筆『天保会記』(1830年)に水戸黄門の「人の戒め」が掲載されているが、池田松之助が語調・口調を整え、「東照宮御遺訓」と改題して広めたという。

◆人のいまし免 水戸黄門公御作之由

人の一生ハ重荷を負ひて遠き道を越行可古としいそく弊゛可ら須゛怠るべ可ら須゛不自由を常と於もヘハ足らざる事那し心尓望之浮まバ困窮し多る時を於もひ出須べし勤事苦労尓於もハヾ戦國尓生れ多る人を於もひ計るべし堪忍ハ無事長久のもと怒りハ敵を求る種勝ツ古とを志りて負る事を志ら祢ハ禍其身尓至る交りを結ふるハ己を責て人を責須人を懐る者仁尓あり信を失ハさるハ物を内場尓須る尓あり義尓違ハさるハ我を捨る尓にあり(人の一生は、重荷を負ひて、遠き道を越し行くが如し。急ぐべからず、怠るべからず。不自由を常と思へば、足らざる事無し。心に望みの浮かまば、困窮したる時を思い出すべし。勤事、苦労に思はば、戦国に生まれたる人を思ひ計るべし。堪忍は無事長久のもと。怒りは敵を求める種。勝つ事を知りて、負ける事を知らねば禍、その身に至る。交わりを結ぶるは、己を責めて人を責めず。人を懐(なつ)けるは、仁にあり。信を失はざるは、物を内場にするにあり。義に違(たが)はざるは、我を捨つるにあり。)

 


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