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織田家 その日、歴史が動いた

平手政秀が切腹した理由は? 織田信長の傅役「じい」の功績

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戦国大名の家庭事情は今とはかなり違います。
生みの母親が育てないということもそうですし、そもそも両親とも顔を合わせる機会は多くありませんでした。
その代わりに養育・教育するのが乳母や傅役(もりやく)と呼ばれる家臣たちです。
乳母といえば春日局が有名ですね。
今回の主格は戦国の”傅役”といえば多くの人が連想するであろうあの人です。

 

信長がアホすぎて切腹したといわれているが…

天文二十二年(1553年)の閏(うるう)1月13日、織田信長の傅役だった平手政秀が切腹しました。
小説やドラマでは「信長がアホすぎたから抗議のために諫死した」ということになってますが、実は自刃の理由を明確に示す史料は今のところ見つかっていません。
諌めるためであれば、それを事細かに書いた書状が残っているはずですよね。
ということは、別の理由も考えられるわけです。

対抗馬として有名な説は、「政秀の息子と信長がケンカをこじらせていたので、板ばさみになって切腹した」というもの。
マジメっぷりが伝えられている政秀ですから、これもいかにもありそうな理由です。
しかし、自分の父親の葬儀ですら抹香をぶん投げたあの信長がそのくらいで反省するでしょうか。
事実、久秀の死後もその息子達は信長に仕え続けているので、この件がきっかけになって和解できたという可能性はなくもありませんがどうもしっくりきません。
しかしここで話を終えてしまうとこのいかにもおいし……ゲフンゲフン、興味深い出来事が当コーナー最短記事になってしまいますので、もう少し推測を続けてみましょう。

 

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証拠を消したのは誰か?

やはり気になるのは書状がないこと。
平手家の中で相続に関する問題がなかったのなら、それに関する書付がないのはわかります。
しかし、お咎めがあったわけでもないのに自刃するとなれば、主君へお詫びの一筆くらいあってもいいはずです。
特に信長は久秀にとってただの主ではなく、乳母のtkbを噛み切ったといわれるような頃から育ててきた息子のようなものだったのですから。

ここで仮に、久秀が書状を書いていたとしたらどうでしょうか。
つまり、彼の死後誰かが書状を処分した可能性はないのか?ということです。
記録が残っていないのですから、全くありえない話ではありませんよね。
では処分したのは誰か?
候補としては信長、平手家の人間、他の織田家臣が考えられます。

「好きだったよ、じい」(富永商太・絵)

「好きだったよ、じい」(富永商太・絵)

信長の場合は簡単ですね。気に入らなければ書状を破棄することくらいはやってのけるでしょうし。
しかし、この可能性は薄そうです。
なぜなら、信長は政秀のためにわざわざそのものズバリな名前の政秀寺(せいしゅうじ)を建てています。
その他にも狩猟に出るたびに「政秀、これを食え!」といって天に肉を投げつけていたとか、後々まで政秀に感謝していたらしき言動が伝えられているのです。
真偽のほどは例によってタイムマシンで信長のストーキングをしないかぎりわかりませんが、こういう逸話が作られる元になるような態度は取っていたのでしょう。
となると、信長宛に書状が残されていればきちんと保管しておくのではないでしょうか。
こっそり人目につかないよう持っていたかもしれませんし、信長の死後焼失してしまった可能性もありますが。

次に、平手家の人間が勝手に処分した場合を考えてみましょう。
書状の中身を見た家族が、「これが殿にバレたらまずい!」と判断して捨てたというパターンです。
上記の通り政秀は幼少時から信長に仕えていて、苦言を呈することができる人物でしたから、あれこれ耳に痛いことが書かれていた可能性は十二分にあります。
確か、山岡荘八先生の小説ではこちらに近い話になっていましたね。
この場合、平手家の人々が政秀の忠義より自らの保身を取ったという何とも後味の悪い話になってしまいますが……どっちにしろ政秀の息子達は後々戦で全員死んでしまうんですけれども。
信長がわざと追いやったなんてそんなまさか。

最後は他の織田家臣が処分したケースですね。
当時は信長が父・織田信秀の死によって急遽家督を継いだばかりで、織田家は内部分裂を起こしていました。
政秀をはじめとした信長派と、例の弟・信行派です。
信行にはほとんどの家老が味方しており、単純な人数だけなら信長のほうが圧倒的に不利でした。
この状態に耐えかねて政秀が自刃したという説もあります。
その場合、遺書には他の織田家臣に対する告発などが書かれていたかもしれません。
それを知らされた告発相手が平手家の人々から書状について伝え聞いていたとしたら、何が何でも処分したでしょう。
はっきりいってトンデモですが、謎についていろいろ考えてみるのも歴史の楽しみ方ということで。

 

ちゃんと信長は反省していた?

書状の有無や処分の経緯、そして肝心の政秀の真意は不明ですが、確かなことは一つだけあります。
政秀自刃の直後ではなかったものの、信長はやがて年長者を重用するようになっていくのです。
この時代のことですから具体的な年齢がわからない人物も多いですが、祐筆であった武井夕庵(ゆうあん)や蘭丸の父森可成(よしなり)などなど。
特に夕庵については政秀以上に口うるさ……もとい、諫言した記録が多々残されていますが、信長はブチキレたりはしませんでした。その代わり諫言を聞くこともありませんでしたけどゴニョゴニョ

そして、時が経ち信長が近畿を手に入れ天下を臨めるまでになった頃のお話。
ある家臣が「殿がここまで来るなんて、平手殿は思っていなかったでしょうな。実に早まったものです」(意訳)と笑い飛ばしたことがあったそうです。
この冗談を聞いた信長は、笑うどころか大激怒。
「俺がここまでこれたのは、政秀が諌めてくれたからだ!政秀をバカにするやつは許さん!!」(超訳)と怒鳴りつけたとか。真偽のほどは(ry
でも、こうした話が複数あるからには、信長にとって政秀はただの傅役ではなく、父より慕っていた「じいや」だったのではないでしょうかね。
……それなら生きてるうちに行いを改めれば良かったような気もしますが、信長はじいやがいきなり自刃するなんて思ってなかったでしょうから言いっこなしです。

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長月七紀・記

 

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