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その日、歴史が動いた 徳川家

酒井忠次「鉄の結束・三河武士」をまとめた四天王随一の忠義っぷりが熱いス

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「重臣」というと、やはり真面目な人のイメージがありますよね。真面目にやらないと仕事の能率が上がりませんし、そうなると成果も出ないことが多いですから。
しかし、真面目一辺倒だと人からとっつきにくく思われて、チームワークがしにくくなったりもするのですから加減が難しいものです。
いかにも真面目そうな三河武士の中に、それを見事両立させた人がいました。

慶長元年(1596年)10月28日に亡くなった、徳川四天王、及び徳川十六神将に数えられる重臣・酒井忠次です。

徳川家康が名実共に政権を取る前に、そんな重臣が亡くなっているというのはちょっと意外な気もしますね。
とはいえ、忠次は大永七年(1527年)生まれですから、当時としてはむしろ長生きな方なのですけれども。家康は天文十一年(1543年)生まれなので、16歳も年上ということになりますし。

それでは、どんな一生を送った人なのか見ていきましょう。

酒井忠次/wikipediaより引用

 

 

三河の一向一揆では、家に反目しても家康の味方

忠次は、家康の父・松平広忠の代から仕えていました。
家康が今川家へ人質に出されたときには23歳になっていて、お供の中では最年長だったそうです。

桶狭間の戦いの頃には家老の一人となり、家康の節目の戦いの一つ・三河一向一揆でも家康の側近として活躍。実は三河一向一揆のときは酒井家の人も一揆側についていたのですが、忠次はあくまで家康の側を離れませんでした。
「犬のような忠義」といわれる三河武士の中でも、特に忠誠心の厚い人だったということですね。

その後も武働きや外交など、さまざまな面で家康を支えています。
これまた家康の一生で大きなイベントとなった三方が原の戦いでも、忠次は善戦して武田軍の一部隊を破り、家康が浜松城へ撤退すると、自らやぐらに登って太鼓を打ち鳴らしたといわれています。
太鼓の件については三国志で諸葛亮がやった「空城の計」を借用した逸話だともいわれていますが。

 

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武田家に皮肉たっぷりの返歌を送るm9(^Д^)プギャー

また、三方ヶ原の戦いの翌年正月、忠次が別の点で機転を利かせた逸話も伝わっています。

武田家から「松枯れで 竹類(たけたぐい)なき 明日かな」というイヤミったらしい句が送られてきたときのことです。家康も家臣たちも当然激おこになりましたが、忠次はこれにちょっとした落書き?を施しました。

漢字に直すと「松枯れで 武田首なき 明日かな」というように書き換え、イヤミ返しをしたのです。
ついでに門松の竹を、首を切るかのように斜めに切り落としたとか。

この二つの逸話、真贋の程ははっきりしないものの、少なくとも「忠次ならばこういった機転も利くだろう」と思われていたことがよくわかる逸話ですね。
文武両道という言葉そのままの人だったのでしょう。

かといってめちゃくちゃおカタい人だったのかというとそうでもないらしく、「宴では家中一同や同盟相手の前で”海老すくい”という踊りを披露し、場を盛り上げた」なんて話も伝わっています。
ちなみにこの踊り、酒井家のお家芸というわけでもないそうで、詳細がわかっていません。末裔の方もご存じないようです。

たぶん忠次個人の特技だったということなのでしょうが、重臣で忙しいのにいつどこで思いついたんでしょうね。「すくい」とついているからにはドジョウすくいに似ているんでしょうか。
どうせなら代々伝えてほしかったものですが、宴の場が盛り上がるような踊りというと、ちょっと常人では恥ずかしくて真似できな……もとい、忠次のオリジナリティが存分に発揮された動きだったんでしょうかね。
まあそれはともかく、忠次は陰に日向に家康を支えました。

 

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信康の切腹事件だけは免れられなかった・・・との話だが!?

ただし、たった一つだけ、忠次をもってしても解決し切れなかったことがあります。天正七年(1579年)の信康事件です。
このとき、信長の疑いを晴らすべく、徳川家から織田家へ弁解に行ったうちの一人が忠次です。
皆さんご存知の通り、信康は切腹を免れられませんでした。

このことを家康はずっと覚えていて、後に忠次が「うちの倅にもう少し領地をもらえませんか」と言ってきたとき、「お前も息子が可愛いのか」とイヤミを言った……という話が伝わっています。
近年では「信康切腹は家康の意思である」という説も有力になってきているので、この逸話の信憑性もあまり高くないのですが。もう一人の使者だった大久保忠世にはこういった話はありませんし。

まあ、家康の執念深さというか、記憶力のよさを示すエピソードは他にもあるので、わが子のこととなれば、さらにはっきり覚えていてもおかしくはありません。
その場合は忠次の身勝手というよりも、家康こそわが子を可愛く思っていた証明ということでいいのではないでしょうか。家康と子供の逸話というと、冷淡に感じる話のほうが多いですし。

さすがにこの一件だけで家康の信頼が揺らぐことはなく、天正十六年(1588年)に隠居するまでは側近として働き続けています。

秀吉からも隠居所として京都の屋敷や、お世話役の女性や隠居料をもらっていました。この時点だとまだ秀吉もボケてないですし、もしかすると出奔させたかったのかもしれません。

とはいえ、忠次は上記の通り、一族の人間が一向一揆側についたときでさえ家康の元を離れなかった人ですから、そのまま一生を終えています。

本当は、家康が天下を取るのを見たかったでしょうねえ。

長月 七紀・記

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参考:酒井忠次/wikipedia

 




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