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なんと7817社!日本で最も多い神社【八幡様】が偉くなった理由ご存知ですか?

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日本全国におよそ8万社あるといわれる神社。
あまたある神社は、まつられる神様によっておおまかに分類することができる。お稲荷様をまつる農耕の神、学問の神様・菅原道真を祭る天神などだ。

八百万の神といわれるほどバラエティに富む日本の神々のなかでも、ダントツ1位の7817社をほこるのが、応神天皇をまつる八幡信仰の神社だ。
八幡神社、八幡宮、若宮神社などの名称を持つ神社で、第15代・応神天皇という実在する人物を神様としてまつる。「本八幡」(千葉県市川市)「八幡山」(東京都世田谷区)など、八幡を含む地名は、この信仰に関わる場所と考えてよい。

寺院に本山寺があるように、信仰にはそれぞれ総本宮がある。いわば信仰のスタート地点だが、八幡信仰の総本宮はなぜか大分県の宇佐神宮である。
なぜ応神天皇が八幡信仰の神様となったのか。なぜ総本宮は大分県の宇佐神宮なのか。八幡信仰には謎が多い。

宇佐神宮

 

朝鮮出兵から帰国した母子を待ち構えていたのは・・・

応神天皇といわれても、大抵の人はおそらくどんな人なのか、知らないのではないか。それもそのはず、お世辞にも、歴史上で功績ある偉人とはいいがたく、神様にふさわしいキラリと光る伝説もない。

応神天皇の父は仲哀(ちゅうあい)天皇、母は神功皇后である。父の死後、母の神功皇后は出兵中の朝鮮半島で臨月を迎えたが、「我慢して」産み月を帰国後まで延ばしたとされている。しかし、朝鮮出兵から帰国した母子を待ちかまえていたのは、異母兄のヤマト軍との戦いであった。

海外での戦いを終えたばかりの一行は、なんとか後継争いに勝利し即位した。すでに七十一歳。苦労の末に天皇となった応神だが、即位後の業績は、渡来人がやってきて日本に大陸の文化を伝えたことや、大規模な土地開発が行われた程度のことで、歴史書に八幡様となったとは書かれていない。さらには八幡神としてまつられる直接的な理由やきっかけは見あたらない。宇佐地域(大分県)との関係も皆無だ。

八幡様が歴史書にあらわれるのは応神天皇の死後300年近くあとの奈良時代のことだ。以後、八幡神は政治の表舞台で活躍をみせるが、じつは八幡様=応神天皇とは考えられていなかった。両者が八幡さまが応神天皇の化身とされるのには、もう少し後の平安時代はじめのころと考えられている。この点はあらためて後述する。

 

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総本宮・宇佐神宮の栄枯盛衰

それにしても、奈良時代の八幡様の活躍は凄まじい。宇佐神宮の八幡神は九州という地方出身の神でありながら、国家のアドバイザー(託宣という)の神となり突如として活躍しはじめたのだ。

国家の重要案件が行き詰まると、「お告げを聞いてきなさい」と、わざわざ奈良の都から使いを派遣して伺いを立てるのが習わしとなっていたのである。

応神帝御影/Wikipediaより引用

聖武天皇が東大寺の大仏を作ろうとした時の話である。大仏の金箔(きんぱく)仕上げに必要な黄金が不足してしまった。当時、日本国内で金は産出されておらず、すべて外国からの輸入に頼っていたのだ。

このとき、宇佐の八幡神が「必ず金がでる」と予言をした。すると、実際に陸奥(宮城県)から金が産出したとのニュースが飛び込んできた。その功もあって、大仏の開眼セレモニーには八幡神が招かれている。

もっとも、いいことばかりではなかった。大仏開眼からわずか数年後、宇佐神宮の神官が政治対立に巻き込まれて、流刑となってしまった。さらには、八幡神自身が四国へ流されてしまう始末。神さまが死んでしまうことがあるかどうかわからないが、ここに八幡の神さまは一度「お陀仏」となった。

しかし、八幡神は短期間でよみがえった。それは怪僧・道鏡が天皇の位を奪取しようとした「宇佐八幡神託事件」である。

未婚で後継ぎのいなかった称徳女帝は、道鏡に皇位を譲る気でいたが、譲位の直前になり、宇佐の神が「天皇になるものは天皇家だけである。即刻道鏡を排除すべし」というお告げを下し、クーデターを阻止した。

ここに、宇佐神宮は再び輝きを取り戻した。

 

神道(八幡)と仏教(菩薩)を組み合わせた合体ロボとして

このように、八幡神の活躍は数多くみられるものの、いくら奈良時代の歴史を紐解いてみても、応神天皇との関わりをしめす史料がまったくみたあらない。奈良時代までは八幡神と応神天皇とは無関係だったとみてよい。

では八幡神が応神天皇と同一であると考えられるようになったのはいつのことなのか。有力な仮説の一つとなっているのが、平安時代のはじめごろ、桓武天皇らが政治利用のために「八幡神=応神天皇」としたとする考えだ。

桓武天皇は、794年、京都に都を遷した天皇として教科書にも登場する敏腕政治家である。おどろくべき「裏ワザ」で八幡神を強化することに成功している。

「八幡大菩薩」と名付けて八幡神を国家の守護神へと格上げさせたのだ。「八幡大菩薩」は、「八幡=神道」「菩薩=仏教」の二つをミックスした合体ロボ。当時は仏教も神道もごちゃまぜな神仏混淆の時代だったとはいえ、相当斬新なアイデアだったにちがいない。仏と神の力が合わされば、国家の守護神として頼もしい。

パワーアップした八幡さまを国家の守護神にまつりあげた桓武天皇は、いったい何を目指したのか。答えはなんと「新羅からの流民阻止」。なんか拍子抜けするような、夢も希望もない話ではある。

 

「新羅人よ、日本に来ないでほしい!」

当時、朝鮮半島の新羅と日本とは正式な国交がなかった。新羅で大飢饉などをきっかけに国力が低下すると、日本への流民が数多く発生した。日本側はそれを抑制しようとするが、新羅の流民は海賊行為に及ぶようになった。日本側は新羅人の流入を徹底して排除しようと画策した。

「新羅人よ、日本に来ないでほしい!」

そこで持ち出されたのが、神功皇后と応神天皇の母子を八幡様と称して、守護神として担ぎ上げることだったのだ。

三国時代後半の576年頃の半島/Wikipediaより引用

神功と応神の母子が新羅への布石として担ぎ出されたのは、母の臨月中に朝鮮半島へ出兵したという逸話による。日本の歴史書には、朝鮮半島の諸国を従えて凱旋したとあるように、新羅流民、海賊に苦しむ日本にとって、それに打ち勝つと考えられた人物だったのだ。

ただし、朝鮮半島での戦争中、応神天皇自身はまだ生まれてすらおらず、あくまで戦ったのは妊娠中だった母の神功皇后であることは先述したとおり。

八幡様はもともと神功皇后と応神天皇の親子だったが、いつしか応神天皇ばかりがクローズアップされてしまった、というのが真相だろう。実際、宇佐神宮には、応神だけでなく、神功皇后もまつられている。

伝説に彩られた八幡様。その正体を突き止めることは相当困難だ。今回紹介したのも有力な仮説の一つではあるが、研究がすすみ、八幡様誕生の秘密が明らかになる日も近いかもしれない。

恵美嘉樹・記

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【参考文献】
恵美嘉樹『日本の神様と神社』講談社プラスα文庫

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