今回は、織田信長の本能寺の変と並び、戦国時代のミステリーに分類されそうな、とある事件について考えてみましょう。
永禄七年(1564年)7月5日。
上杉家の家臣である長尾政景と宇佐美定満(定行)が溺死するという不思議な事故がありました。
のっけから穏やかならぬ雰囲気が漂いますが、現代に至るまで事の真相がわからない、というミステリーな話でもあります。
まずはこの時点までの上杉家・長尾家について、内部事情を見ていきましょう。
※以下は上杉謙信の考察記事となります
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越後長尾家は、謙信と政景に分かれる
他の大名家同様、上杉氏は多数の系統に枝分かれしています。
歴史の表舞台でよく出てくるのは、その中で越後守護を代々務めてきた家。
そのまんま「越後守護上杉家」と呼ばれています。
長尾氏は桓武平氏の末裔で、やはり多くの系統に枝分かれしている家であり、越後守護上杉家と絡んでくるのは、「越後長尾家」と呼ばれる系統です。こっちもまんまですね。
越後長尾家は、さらに府中上杉氏と上田長尾氏という系統に分かれます。
簡単にいうと、上杉謙信(長尾景虎)が府中上杉氏、長尾政景・景勝親子が上田長尾氏の出身です。
戦国時代の上杉家を扱った著作物では、上田長尾氏に属する武士を「上田衆」と呼んだりもしますね。
今回の話には関係ありませんが、桓武平氏の末裔には平将門などもいます。
つまり「謙信や景勝は将門とものすごく遠い親戚」ということになるわけです。
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といっても時代も地域も違うので、もはや親戚とは言えないぐらい遠いですが。
まあ、意外な繋がりがあって面白いよねということで。
天文の乱まで遡る因縁があった!?
さて、話は溺死事件の20年ほど前にさかのぼります。
越後守護上杉家が断絶の危機に瀕したとき、奥州の伊達家から「じゃあうちの息子を一人あげるよん」という話が持ち上がりました。
天文の乱(伊達稙宗と晴宗の親子争いを機に東北中が大喧嘩)のキッカケとなった、伊達実元養子入り未遂事件です。
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養子を迎える側の上杉家でも、当然これは問題になりました。
養子を迎えるにしても、身近な家から迎えるのが筋ですし、伊達家の中で揉めまくったために、養子が来るのか・来ないのか、よくわからん状態になったからです。
そして伊達家と奥州各地の大名が天文の乱をやっている間に、上杉家と長尾家も入り乱れて抗争を繰り広げていました。よそにまで迷惑かけた稙宗ェ……。
このとき、府中長尾氏の当主は長尾晴景という人物でした。謙信の実兄です。
彼はかなり温厚な人で、国人たちに対しても力で押さえつけるより宥和を試み、争いを収める主義でした。
武将というよりは政治家に近いというか、戦国時代では珍しいタイプですね。
しかし、天文の乱がらみのイザコザではその手がききませんでした。
謙信が還俗するとアッサリ鎮火
そんな中、お寺に入っていた謙信が還俗し、あっさり家中を鎮めてしまいます。
これによって府中長尾氏は晴景派と謙信派に分かれ、身内同士での争いが始まってしまいました。
当時の上田長尾氏の当主は政景で、このとき晴景側についています。
最終的に謙信が府中長尾氏の当主になり、政景もアレコレを経て軍門に降るのですが、これが後々尾を引きました。
政景の父・房長が少々アレな人だったため、その頃のイメージが重なって、政景やその配下の上田衆の待遇も、良いとはいえないものになってしまったのです。
しかし、政景は「一度帰順したからには……」と気分を切り替え、謙信に忠実に仕えました。
家中の混乱に愛想を尽かし、再び出家しようとする謙信を説得して引き止めたり、春日山城の留守を預かったり、信頼も勝ち得ていったのです。
また、政景の正室は謙信の姉・仙桃院であり、夫婦仲が良かったことで、息子である景勝にはあまり悪影響が残らなかったようです。
義理の兄ということで、謙信も多少なりとも心強かったでしょう。
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