幕末に活躍した勤王僧・月性(げっしょう)。
安政5年(1858年)5月11日がその命日ですが、
「あれ、漢字が間違ってない?」
と思われるかもしれません。
そう、西郷隆盛と親交があった清水寺の住職「月照」ですね(以下にそのまとめ記事がございます)。
西郷と共に入水自殺した月照~なぜ京都清水寺の住職が自死へ追い込まれたのか
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今回注目したい「げっしょう」は「月性」で正しく、実は吉田松陰とも親交がある人物。
「西の松下村塾」に対し、「東の清狂草堂(せいきょうそうどう)」という私塾を開いた方でもあります。
しかし、それでも印象が薄いすね……。
では、以下の慣用句だったらいかがでしょう?
人間至る処青山有り──。
辞書には「人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきである、との意」とあり、この一節を含む詩を読んだのが月性なのです。
いち早く海防の重要性に気付き、それを説いて回った「海防僧」としても知られます。
果たして月性とは、いかなる人物だったのか?
その生涯を追ってみたいと思います。
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僧侶だらけの仏教一家 しかし幼き頃は悪ガキで
月性は文化14年(1817年)9月27日、周防国大島郡遠崎村(現・山口県柳井市)で生まれました。
昨年が生誕200年の節目だったこともあり、講演会などが行われています。
実家は西本願寺系の妙円寺、幼名は不明。
妙円寺の十世住職となりますので、父は先代の住職……と言いたいところですが、実は父無し子でした。
母・尾の上は月性の祖父にあたる八世謙譲の長女として生まれ、岩国の寺に嫁ぎます。
が、月性を妊娠中に不縁となり実家に帰りました。そのため妙円寺で生まれ、父の顔を知らないままに育ちます。
母・尾の上には、亡くなった兄を除く弟が4人、妹が1人いました。後に末弟の周邦が第九世となり、他の兄弟はみな他寺へ養子入りして住職となっておりますので、まさに仏教一家です。
こんな家に生まれたと言うことは、月性も信心深く勉学に励む少年だったと思いますよね。
否、かなりの悪ガキだったようです。
寺の池に飛び込み鯉を片っ端から捕まえて陸にあげ飛び跳ねるのを見て喜んだり、どこからともなく持ってきた硝煙を爆発させたり、いわゆる暴れん坊。
合戦ごっこをしては相手をコブだらけにするものですから、門徒の親たちからは寺に苦情が耐えなかったようです。
母・尾の上は、そんな月性を甘やかすこと無く厳しく躾ました。
その甲斐あって月性は学問に熱を入れるようになります。
「学をなすことが出来なければ、再び故郷には帰らない」
13歳で得度を受けた月性は、15歳になると恒遠醒窓(つねとお せいそう)の私塾・蔵春園(恒遠塾)に入門します。
場所は豊前国上毛郡(現在の福岡県)。
ここで5年を過ごし、しばらく広島にも滞在した後に2年間半、佐賀の精居寮で学びました。
この時、彼は佐賀城下だけではなく長崎や平戸へ何度も足を運んでいます。
長崎で眼にしたものはすべてが珍しく、驚きの連続であったようで、その思いをたくさんの詩に詠み、月性を最も驚かせたのは舶来の文物ではなく、何千キロの航海にも耐え、要塞の如く大砲を備えたオランダ船そのものでした。
後に海防の重要性を説いて回った背景には、このとき感じた欧米列強への脅威があったのでしょう。
月性は23歳で帰郷しましたが、4年後の天保14年(1843年)に再び家を出て大阪に学びます。
この時に作ったのが「将東游題壁」、冒頭で一節を紹介した立志出関の詩です。
男児立志出郷関
学若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山
男児志を立てて郷関を出づ。学若し(もし)成る無くんば復た還らず。骨を埋むる何ぞ期せんや墳墓の地、人間至る処青山あり。
「学をなすことが出来なければ、再び故郷には帰らない」という意志がみてとれる詩ですね。
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