幕末人気ランキングがあれば、今も将来も、ずっと1位に輝き続けそうな坂本龍馬。
その魅力はなんと言っても【自由な気風】にあると思われますが、同時に彼の人気を陰ながら支えているのが
の存在ではないでしょうか?
敵の襲撃を察知して無事に龍馬を逃した機転。
人斬り半次郎相手にも一歩も引かなかった肝っ玉の強さ。
そうかと思ったら龍馬と一緒に「薩摩ハネムーン」を楽しむ女性らしいお話も現代人の胸を打つ――。
明治39年(1906年)1月15日はそんな彼女の命日。
今回は楢崎龍(以降・おりょう)の生涯を見ていきたいと思います。
※以下は坂本龍馬の生涯まとめ記事となります
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生まれは京都 曽祖父は長州藩士
龍馬の妻となるおりょう。
その生まれは、尊皇攘夷派と縁の深いものでした。
おりょうの曾祖父は長州藩士です。
ところが何らかの落ち度で除籍され、京都に流れてきたのです。
父である楢崎将作は、久邇宮朝彦親王(中川宮)の侍医をつとめたこともあるインテリでした。
皇族や公家とも交流があり、一橋派の活動家である頼三樹三郎や池内大学とも交際がありました。
そのため、安政5年(1858年)の【安政の大獄】で捕縛されてしまいます。
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翌年には釈放されたものの、牢獄での暮らしがたたったのか、文久2年(1862年)に亡くなってしまいました。
おりょうの母・貞と遺児たちは残され、楢崎家の人々は困窮しておりました。その弱みにつけこんで、おりょうの妹が大阪の遊郭に売り飛ばされそうになります。
おりょうは遊郭に乗り込むと、絡んできた男を殴り飛ばし、火鉢を投げつけ、妹を取り返して京都まで戻って来ます。
気が強く、大胆な性格だったのですね。
龍馬は、この武勇伝を聞いて「面白い女だ!」と大喜びしたとか。
心細く貞が暮らしていると、その友人が浪人たちの面倒を見る女性を探している、と頼んで来ました。
勤王医者の妻ですから、貞は危険を伴うこの役目を快諾しました。
龍馬とおりょう 出会いは?
浪人たちの世話をする中で、坂本龍馬と出会った貞。
貞が身の上話をすると、龍馬は同情しました。
「おまさんも苦労をしちゅーんじゃのぉ。おまさんの娘さんを、うちの嫁にくれんか」
母である貞は、そろそろおりょうに夫を持たせようと思っていました。
どうせ夫にするならば、龍馬こそぴったり、ありがたい話です。おりょうも龍馬とは面識があり、好印象を抱いていたのでしょう。こうして、話は進んでゆきました。
両者は運命の相手でもあったのかもしれません。
同じ「龍」の字が名前に含まれていることを知り、これは面白いと龍馬は語ったとされています。妹を取り戻した武勇伝も、いかにも彼好みです。
時は元治元年(1864年)夏。
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貞も会津藩に捕らわれ、龍馬とおりょうの知り合いである望月亀弥太が池田屋事件で殺害されるという、大変な時期。
8月、龍馬とおりょうは内祝言をあげ、夫婦となりました。
しかし多忙の折、激動の時代です。
夫婦水入らずで過ごすこともできないまま、おりょうは寺田屋に預けられたのです。
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