おそらく小学生でも知ってるレベルの話ですが、では、この単語が初めて日本に登場したのはいつだったか?
となると、よほどの江戸時代通でないとお答えできないでしょう。
それは元和元年(1801年)のこと。
長崎でオランダ通詞(通訳)だった志筑忠雄(しづきただお)が、ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの著書を訳したのがキッカケでした。
このドイツ人は出島での勤務経験があり、その本の中に記されていた
「日本帝国を鎖(とざ)して、国民にいっさい外国貿易に関係させぬことの可否についての探究」
という部分を「鎖国論」と日本語訳したのです。
つまり、幕府が「国を鎖(とざ)すよ!」と明言したからではなく、外国人の目から見た話だったんですね。
一昔前までは「国が完全に閉じられ、出島以外で他国との接触は一切禁じられていた」と説明されることが大多数でした。
しかし、いくら幕府が力を持っていたとしても、広い日本の海岸線全てを封じて外交を遮断することなど、物理的に不可能です。
当時の日本人からすれば「制限外交」といったほうがより近い。
ですので、最近では、
「”鎖国”だと事実と印象が離れているので、新しい単語を作ろう」
という動きもあるようです。
ちょっと理屈っぽい話になってしまいました。
ここでは便宜上「鎖国」という言葉を使わせていただきますね。
鎖国自体は、寛永16年(1639年)7月5日に出された第五次鎖国令で完成したとされています。
本稿では、そんな「鎖国の歴史」を振り返ってみましょう。
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オランダにコントロールされていた?
鎖国体制についての評価は、現代でも意見が分かれます。
◆賛成派
「国を閉ざしていたからこそ、ヨーロッパの争いに巻き込まれることなく、植民地競争にも参加せずに済んだ」
◆反対派
「国内は安全だったかもしれないが、そのせいで技術は大きく出遅れたし、日本人は世界情勢に疎くなった」
だいたいこんな感じでしょうか。
物事に完全な善悪がないように、鎖国についても見方次第となってしまいます。
また「オランダ人によって、日本の国際状況把握がコントロールされていた」という見方もあります。
理由は主に2つ。
・鎖国へ至る道のりにオランダ人が深く関わった
・鎖国後、世界の情報源がオランダ人に偏った
さすがにこれでは一国のみに頼りすぎて、リスクヘッジになっていないと思われることでしょう。
今回は、その辺の事情も含めて、鎖国の経緯をみてみます。
キリスト教を禁ずるならば
江戸幕府は当初、どうにかして続けられそうな外国との交易手段を模索していました。
しかし、西洋人とキリスト教はセットが基本。
慶長十八年(1614年)にキリシタン禁令を発布し、大坂の役を挟んで元和二年(1616年)に徳川家康が亡くなると、より一層キリスト教の取り締まりを強めました。
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同時に、西洋との直接接触をできるだけ取り除こうとします。
キリスト教禁止と並行して、慶長十四年(1610年)には、西国大名が五百石積み以上の大船を持つことを禁止し、外国との大々的な貿易をやめさせました。
特にスペイン・ポルトガルについては、次のようなオランダからの情報で強く警戒されます。
・スペインとポルトガルは元々同じ民族だから性根は一緒
・キリスト教の布教と通商の後、侵略するつもりだ
・現に、南方には彼らの被害にあった国がたくさんある
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かくして国内にいたポルトガル人は追放され、日本人がマニラ等に渡航することも禁じました。
さらに、徳川秀忠が寛永九年(1632年)に亡くなって家光の代になると、具体的に法令を発布し、鎖国の方針を明らかにします。
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いわゆる【鎖国令】です。
1633年~1639年にかけて五段階の発布
鎖国令は、寛永十年(1633年)~十六年(1639年)にかけて、五段階に渡り発布されました。
ほとんどは内容がかぶっているので、なぜこんなにも短いスパンで乱発したのかがよくわかりませんが……念押しの意味が強かったのでしょう。
鎖国令の中身を三行で要約してみます。
これらの総仕上げが、寛永十一年(1635年)の長崎・出島へのポルトガル人強制移住、そして二年後のポルトガル人及びその混血児の追放でした。
そのまま問題がなければ、出島での交易相手はオランダではなくポルトガルだったかもしれません。
しかし、寛永十四年(1637年)から翌年の春にかけて、島原の乱が勃発。
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島原の乱の参加者は、困窮した農民も多かったものの、旗頭がキリシタンだったことで、幕府はより一層西洋人とキリスト教への警戒を強めました。
その影響で、オランダ人や中国人までもが居住地域を制限されるなど、煽りを受けています。
また、このタイミングで、日本に住んでいたオランダ人や、有名な“じゃがたらお春”などの混血児がジャカルタへ追放されました。
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