大河ドラマで2013年『八重の桜』と、2014年『軍師官兵衛』を比較して、
「駄目な方の官兵衛」
「寝坊した官兵衛」
という、可哀相なあだ名を得てしまった会津藩士がおります。
佐川官兵衛です。
『八重の桜』では中村獅童さんの愛嬌あふれる演技が印象的でした。
ではなぜ、あそこまで見事に寝坊を突っ込まれたのか?
と言いますと、ドラマの作り話ではなく史実だったからです。
しかし、だからといって佐川を軽んじるのは早計。
山川浩と同じく西南戦争へ出向いた彼は、元会津藩士たちの悲哀憤怒を背負い、明治10年(1877年)3月18日、壮絶な最期を迎えます。
佐川の生涯を振り返ってみましょう。
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藩主からの信頼も篤い佐川官兵衛
会津戦争において松平容保から労いの杯を賜り、そのまま気持ちよく寝過ごして、出陣のタイミングを逃してしまった――。
そんな佐川官兵衛のために弁護をしますと、当時は連戦で身体が疲れ切っていたのです。
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なので寝坊をあまり責めないでおきたいところ。
ちょっとドジではあったものの、佐川は人望が篤く、愛すべき性格でした。
若い頃、江戸で定火消と言い争いになり斬り捨ててしまい、謹慎処分を受けております。こうした粗忽な一面もありながら、素直で愛嬌のある性質であったゆえ皆から好かれておりました。
佐川は会津藩士らしい真っ直ぐな性質で、会津若松城落城後も、最後まで戦おうとします。
そこに容保から「先に降伏してすまなかった」という書状が届いたのです。
それに応じてやっと降伏したものの、高熱が続いて苦しめられたほど……負けず嫌いで真っ直ぐな性格でした。
会津戦争のあとは、切腹を申しつけられた萱野権兵衛の代わりになりたいと申し出るものの、受け入れられません。
斗南藩に移ってからは、どこか落ち込んだような日々を送っていた、それが佐川でした。
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“鬼官”ちゅう男がいたはずだ
そんな佐川官兵衛に、目を付けた男がいます。
「会津には、“鬼官”ちゅう男がいたはずだ」
警視庁を組織することに力を注いでいた元薩摩藩士の川路利良です。
彼の脳裏にも、会津で鬼と呼ばれるほど強かった佐川の記憶があったのです。
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官兵衛も四十歳を越えて、年老いたと思う日々です。
残る命を、会津の名誉のために燃やすにはどうすればよいのか?
彼の背後には、職と出世を求めた会津藩士もおりました。
川路の誘いを受け、佐川は警視庁出仕を決めます。
ちなみに佐川は、とある人物の仲人でもあります。
その人物とは、斎藤一あらため藤田五郎と、時尾夫妻でした。藤田も警視庁に出仕しておりました。
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警視庁に出仕した佐川は、続発する士族反乱の鎮圧を目の当たりにすることになります。
その中には、旧会津藩士・永岡久茂が首謀者であった明治9年(1876年)【思案橋事件】もありました。
明治の世は、佐川にとって辛いものです。
それでも、彼は生き抜くほかありませんでした。
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