日本史では、女性の影響を受けたケースが比較的多く記録されています。
信長の母・土田御前(どたごぜん)もまた、戦国史に大きな影響を与えたと考えられる一人でしょう。
創作物では、以下のような人物像で登場することの多い女性です。
【土田御前(~1594年)】
織田信秀の正室として嫁ぎ、信長と信勝(信行)、そしてほか数人の子供を産んだ。
嫡男は信長だったが、あまりにもひどい言動をしていたため、土田御前は信勝を可愛がり、跡を継がせたがった
かようにフィクションではシンプルにまとめられる人物ですが、実のところ彼女自身に関することはあまりよくわかっていません。
歴史に影響を与えた記録は残っていても、女性の人となりそのものの記録は乏しいのです。
それでも日本史に衝撃を与えた織田信長の母ですから、どうしても興味は尽きません。
本稿では、知りうる限りの実像に迫ってみましょう。
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生まれは?
土田御前は出自どころか、名前の読み方すら確定していません。
今のところ【素性】については以下のような説があります。
佐々木六角氏後裔・土田政久の娘説
土田政久の娘説が最も知られておりますが、裏付ける一次史料は今のところありません。
後年になって、土田氏の縁者・生駒氏を母とする信雄関係の史料から、この説が出てきたとされています。
小嶋信房の娘説
信長の姉・くらの方が嫁いだ大橋重長の記録『津島大橋記』や『干城録』などでそう記されています。
『干城録』は徳川家康~徳川家光時代の江戸幕府の家臣について書かれた本です。
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しかし、小嶋信房という人の素性がそもそもハッキリしていません。
小嶋という名字は関東~東海にかけて。
特に愛知県に多く、小島という武士の家も当時あったらしいので、まったく根拠がない説ともいいきれません。
くらの方が嫁ぐ際、小嶋信房の養女として輿入れしたというので、小嶋家にはそれなりの力があったはずです。
土田御前が小嶋家の出身かつ、当時の織田弾正忠家(信長の家)よりも格上だったからこそ、養女にしたのでしょうね。
六角高頼(義賢の祖父)の娘説
『美濃国諸旧記』に、信長生母は六角高頼の娘だという記述があるのですが……。
この本の成立が寛永末期(1640年代ごろ)の上、著者の素性がわからず、やはり信憑性はアヤフヤ。
土田氏自体にも近江六角氏の庶流説がありますし、根拠がないというわけでもないのがモヤっとするところです。
名前は?
読み方も複数の説があります。
この時代、女性の呼び名は実家の地名から取ることが多いので、実は素性がわからないと読み方も確定できません。
例えば、美濃可児郡の土田から来たのであれば「どた」、尾張清洲の土田なら「つちだ」になるとか。
字面は変わりませんので、別人と混同されることは少なく、文章上での問題はありませんね。
そういうわけで、嫁ぐ以前のことも、それ以降のことも、記録が多いとはいえません。
織田信勝が兄・信長に謀殺される前は、一緒に末森城に住んでいたようです。
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俗説では完全に信勝の味方だった彼女。
信長を敵視していたかのように語られますが、記録上の言動ではそうでもありません。
信長と信勝の対立が深刻化し、【稲生の戦い】で信勝方が敗れた後は仲立ちとなって、弟・信勝の赦免を信長から引き出しています。
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また、信長が計略のため重病のふりをしたときも、信勝に
「日頃のことはともかく、実の兄上なのですから、お見舞いに行きなさい」
と言っていたことが、信長公記に書かれています。
弟・信勝(信行)を誅殺だ~戦国初心者にも超わかる信長公記29話
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孫たちの面倒を見ていた
永禄元年(1558年)11月に信勝が謀殺された後は、信長のもとで暮らしていたようです。
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浅井氏滅亡後のお市の方の娘たち(茶々・初・江)の世話をしていたともいわれています。
祖父母にあたるワケですから、かわいい孫たちだったのでしょう。
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