「れきしクン」こと長谷川ヨシテルと申します。
おかげさまで、ご好評をいただいております当連載。
“一般的にはマイナーだけど、ある地域ではメジャーな戦国武将”をご紹介させていただいており、今回はレペゼン鳥取県鳥取市の戦国武将
兵主源六(ひょうすげんろく)
さんです!
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コンコノ城の兵主源六
「いや、誰、それ〜!」という方がほとんどかもしれません。
私も初めて知ったのは数年前のことでしょうか。たまたま知り合いが、兵主源六さんの末裔とご友人だったことがキッカケでした。
兵主さんは「え、ソレが原因でお城を落とされたの!?」という武将で、拙著『ポンコツ武将列伝(柏書房)』(→amazon)でもピックアップさせていただいた大好きな歴史人物の一人です。
兵主源六さんの出身は因幡国(鳥取県)です。
コンコノ城(金剛城とも)という標高293mの山城が居城で「いずれ必ず!」登城したいと思っているお城。
場所は『日本100名城』の鳥取城から西に約17kmの場所にあり、同じく鹿野町にある鹿野城からは南へ約1.5kmの距離になります。
と言ってもわけわからんと思いますので、地図で確認してみましょう。
左上の赤い拠点が鹿野城
中央黄色の拠点がコンコノ城
実はこのコンコノ城、グーグルマップにも登録がなく、まだ未登城なこともあって、正確な位置までは不明です。
以下に登頂記のブログがございますので、「これから攻めたい! 」という方はご参考に。
◆コンコノ城/山城攻略日記(→link)
衰退する山名家 拡大する毛利家
兵主源六さんは、いわゆる「国衆」と呼ばれる勢力だったようです。
現在で言えば市町村程度の領地を治めていた小領主で、大河ドラマでお馴染みの真田昌幸や井伊直虎あたりが有名ですね。
はじめに主君として仰いでいたのは、鳥取城を居城としていた名門・山名家でした。
足利尊氏の室町幕府創設に大きく貢献した山名時氏や【応仁の乱】で西軍の総大将を務めた山名宗全(持豊)などでよく知られています。
山名家は、足利義満の時代に全国66ヵ国のうち、11ヵ国を持っていたことから「六分の一殿」と称され、警戒した足利義満によって討伐【明徳の乱】を受けたことでも歴史に名を残していますね。
しかし!
ご存知の通り、戦国時代は実力の時代です。
山名家は戦乱の中でジワジワと衰えていき、西からの新たな勢力のプレッシャーを受けていました。吉田郡山城(広島県安芸高田市)を拠点としてグングンと領地を拡大していた毛利家です。
そして因幡国の方面を担当していたのが吉川元春(元就の次男・輝元の叔父)でした。
山名豊国はあっちで降参、こっちで降参
兵主源六さんの主君・鳥取城の山名豊国は、天正元年(1573年)に吉川元春の侵攻を受けて降伏します。
前後して、兵主源六さんも毛利家に従うようになったようです。
ちなみに、この山名豊国という大名も、かなり個性的――というかゲームでは激弱大名でして(笑)。
本連載でおなじみ『信長の野望 革新』の能力値はこんな感じ。
【信長の野望 革新】
山名豊国データ
統率28
武勇55
知略23
政治38
ね、弱いでしょ(笑)。
ただ、機を見るに敏というか、しぶといというか、薄情者というか、世渡り上手というか……。
この山名豊国、大名としては滅亡するのに自身は死なず、豊臣秀吉の御伽衆(相談相手)となって江戸時代の寛永3年(1626年)まで生き、子孫は高家旗本となっているのです。
詳しい解説はまた別の機会にしたいと思いますが、戦国当時の経歴をザックリまとめますと―――。
◆永禄6年(1563年)
家督を継いでいた兄・山名豊数が、家臣の武田高信にクーデターを起こされ鳥取城を追われる→毛利家が武田高信を援助
↓
その翌年に?兄が病死する(隠居説も)
↓
◆天正元年(1573年)
山名豊国、尼子家の残党(山中鹿介など)の援助を受けて鳥取城を奪還
↓
しかし、すぐに吉川元春が攻めてきて降伏 ※尼子残党を見捨て、その後、尼子残党の攻撃を受ける……
↓
織田信長の軍勢が因幡国に! →織田家に通じる
↓
怒った毛利家が再来! →再び毛利家に通じる
↓
「それはないだろ!」と織田家の攻撃
「どうしよう……」←イマココ
こんな流れで、天正8年(1580年)から羽柴秀吉(豊臣秀吉)を総大将とする織田軍が鳥取城を包囲することとなりました。
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