2月下旬は織田信長関連の出来事をちょいちょい目にします。
新暦に直すと4月頃になりますので、春を迎えて何か行動を起こすのに適した時期だったのでしょう。
例えば、天正九年(1581年)2月28日は、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)が行われた日です。
【本能寺の変】前年のことで、信長48歳のとき。
これが、よく見てみるといろいろな推測ができて、結構面白いイベントなんですよ。
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家臣だけでなく公家も参加OK
”馬揃え”というのは、簡単に言えば軍事パレードです。
騎馬武者の美々しさや馬そのものの優劣を競うもので、かつては源義経もやったことがありました。
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当時の武士や大名は、軍事の一環として名馬の収集に余念がありませんから、皆かなり体躯のいい馬に乗っていたはずですし、その威容を誇るのも対外的なアピールとしても自然なことかもしれません。
今で言うなら、海上自衛隊の観艦式に近い感じかと思われます。
このときは会場が内裏(天皇の住まい)の近くだったこともあり、正親町天皇も招待され、かなり大規模なものになりました。
「騎馬の心得があれば公家もおk」ということになっていたので、信長や家臣だけでなく、武闘派貴族・近衛前久(さきひさ)なども参列しています。
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お公家さんって牛車に揺られているイメージが強いですが、自ら馬に乗る人もいたんですね。
光秀も先頭集団に連ねていた
さて、馬揃えに限らず、儀式には序列が必須です。
当然、身分が高い・もしくは年長者から順に並ぶのが定番ですが、この馬揃えについては例外な部分がたくさんありました。
出典が、信長の威光増し増しの『信長公記』ですので、すべて鵜呑みにしていいのかわからないのですが……。
まず第一番が丹羽長秀というのはいいとして。
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二番以下四番までは比較的新参の者です。
中には明智光秀もいて、当時、彼が織田家内で高い位置にいたことがうかがえます。
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まぁ、翌年裏切るんですけどね。
ちなみに彼らは近畿周辺の武士たちを率いていましたので、織田家としては「もはや地元は完全に押さえたぜ!」というメッセージが込められていた可能性もあります。
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長男・信忠の次は次男 そして三男ではなく……
次に続いたのが一門衆。つまり織田家の血筋に連なる面々でした。
もちろんその先頭は、当時すでに家督を継いでいた織田信忠です。
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次に無能とされがちな次男の織田信雄。
映画『清須会議』では妻夫木聡さんが演じられた奇異なキャラでしたね。
本能寺後は家康と手を組み、秀吉と対立しました。
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以下、年齢順……かと思いきや、三番目は信長の弟・織田信包(のぶかね)で、四番目が信長の三男・織田信孝であり、わけのわからん状態になっています。
信包は信忠の補佐についていましたし、信孝は他の家へ養子に入っていたので、この辺が理由でしょうか。
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全体的に単なる年齢順にはなっていないので、信長が信頼していた順と見ることもできます。
となると信雄が二番目というのは……?
「織田信雄は単なる愚将ではない」と指摘される方もおりますので、もしかしたら有能だった可能性もありますよね。
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