渋沢千代

渋沢千代と渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

渋沢千代(栄一の妻)は気高く聡明な女性~しかし夫は突如新居に妾を呼びよせた

大河ドラマ『青天を衝け』で、一つの見所になっていた渋沢栄一と妻・千代との交流。

ずっと不在だった夫の帰りを待ち、耐え忍んでいた千代は、実際どんな女性だったのか?

明治維新後の新政府に出仕した栄一は、大阪の妾を本宅へ連れてきて共に暮らすというトンデモナイことをしでかしましたが、果たして史実では……?

本稿では、明治15年(1882年)7月14日に亡くなられた渋沢千代の生涯を史実から振り返ってみたいと思います。

 


幕末に恋愛結婚はあったのか?

『青天を衝け』では、主役以外にも恋愛結婚をする二人が多数出てきました。

現代の視聴者にあわせてのこととは考えられますが、あくまで演出の都合。

たとえば千代の弟・平九郎と栄一の妹・ていが恋愛感情を深めてゆく場面がありました。

しかし、平九郎とていの結婚は渋沢家存続のためのものでした。

栄一がパリに旅立ち、そのまま戻らなかったら家が断絶してしまう――そうならないために、平九郎を見立て養子にして妹・ていの婿とすることで防ごうとしたのです。

そうなる前に平九郎とていの仲がよかった可能性はあるでしょう。

ただし、この二人に現代人が想像するようなラブコメディ展開があったとすることは無理がありますので、ご理解ください。

幕末とはいえ、恋愛結婚した夫婦は当然おります。ただし、継ぐべき家があり、かつ志士ともなればまた別の話となりますので、そこは念頭に置いたほうがよいと思います。

では、栄一と千代の場合はどうだったのか?

 


気が強く、誇り高き千代

千代は、栄一の師匠・尾高惇忠の妹にあたり、栄一の一歳年下に当たります。

※以下は尾高惇忠の関連記事となります

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幼い頃から誇り高い千代は、こんな逸話があります。

まだ十歳ほどの千代が親戚の家にいたとき、行商人が絹の布地を売りに来ました。

綺麗な布地を眺めていると、親類がこう声をかけてきたのです。

「お前たちくらいの歳の子は、こう言うものを見れば欲しくなるだろう」

千代はムッとしました。

確かに綺麗で眺めてはいるけれど、無闇やたらと欲しがるものか! そう思い、適当な返事をしていたのです。

そんな勝気で誇り高い少女を見て、親類は「この子は只者ではない。大物になる」と尾高家に伝えたのでした。

まだ幼いのに、やたらと欲しがらず、耐える姿が印象的だったのでしょう。

物よりも誇りを大事にする。それが千代でした。

千代は当時の女性らしく、最低限の読み書き算盤を習った程度。

しかし兄が栄一たち男子に四書五経を教えている講義に耳を傾けていました。

あるとき、講義のあと惇忠に「あの講義の内容はどういう意味ですか?」と千代が尋ねます。

兄は妹がどうしてそんなことを知りたがるのかと「うるさい。女がそんなことを知ってどうなるのか」と返します。

すると千代はこう反論しました。

「女だろうと人は人です。人として道理を知りたがるのは当然でしょう。兄様の言葉とも思えません」

それを横で聞いていた母は、兄にそんなことを言うものでないとたしなめます。

しかし惇忠は千代の言うことはもっともだと悟り、妹たちにも『論語』を教えることにしたのでした。

千代は農家の女性ですから、常に家事と仕事に追われていて読書をゆっくりとする暇はありません。

それでも耳で兄たちの講義を聞き、聖賢の教えとは何か考え、悟るようになってゆきました。

読み書きはそこまでできないけれど、ものの道理は理解する女性となったのです。

難しい漢字は読めないと本人も語っていたものの、読んで聞かせて解釈を問いかけると、キッパリと返すことができたとか。

千代は典型的な幕末の女性でした。

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もう一人の千代もいます。吉田松陰の長妹である千代は、兄の教えを守り抜いた烈婦として名を残しました。

女でありながら学び、強い気性で生き抜いた。そんな女性たちの典型が千代でした。

 


幕末の烈婦として、夫を見送る新妻・千代

そんな千代と栄一は、当時としてもまだ若い栄一が満18歳になった歳に結婚しました。千代は17歳です。

一歳しか歳は離れておらず、近所付き合いもしていて、いとこ同志でもあるこの二人は、兄と妹のような関係でした。

細面で色白、なかなか美しい千代に栄一がときめいたとしても不思議はなく、恋心があっても不思議ではありません。

『青天を衝け』では、「胸がぐるぐるする!」と千代への恋心を訴えていました。

しかし、史実をたどりますと胸にあったのは別の思いだと推察できます。

若き栄一には恋よりも大事なものがあり、それが水戸学に傾倒していた尾高惇忠より引き継いだ、憂国の志です。

栄一は16歳の時、自分に対して尊大な態度をとった代官に怒りを募らせていました。

そんな怒りと、当時流行した水戸学、政情不安が澱のように溜まってゆきます。

近隣には歳の近い喜作や千代の次兄・長七郎もおり、話がどんどん盛り上がってしまう。これは危うい。栄一たちを指導する千代の兄・惇忠は、過激な尊王攘夷を唱える水戸学の信奉者です。

そこで父・渋沢市郎右衛門は、栄一に身を固めさせ、若き情熱を鎮めるために、妻を持たせたのです。

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千代に期待された役目は、家に栄一を繋ぎ止めるブレーキ役となること。

しかし、そんなものは焼け石に水に過ぎません。

『青天を衝け』では、22歳の栄一が長男の夭折を嘆く場面がありましたが、実際にはもっと大事なことがあったのです。

長男がすぐ息絶えようとも、また千代が妊娠しようとも、栄一は世直しばかりに気を取られていたのでした。

千代はそんな夫の様子を横目に見ながら、裁縫をしていました。

千代からすれば、夫をああも情熱的にした要因は、兄由来の教育だと理解しています。誰も責められたものではないのです。

また千代自身も、漢籍に親しみ、英雄の志を理解しています。

夫にすがるようなことをしたら、かえって丈夫(立派な男)の妻失格である。そう自らに言い聞かせながらも、手にした布には涙が落ちる。そんな日々を過ごしていたのでした。

『青天を衝け』では姑・えいたちは優しく千代に接しています。

ただ、それもドラマならではの脚色だったと言えます。

千代は華やかでほっそりとした美人であったために、質実剛健を好む渋沢家からすればふさわしくない嫁とされました。もっと骨太で質実剛健な嫁でよいとされていたのです。

栄一は水戸学由来の熱狂的な尊王攘夷思想にのめり込む。

千代は妻として支えなければならぬと気持ちを抑え込む。

現代人からすれば、あまりに厳しい新婚生活でした。

ただ、幕末志士の典型とも言える夫婦像で、例えば栄一よりも年上の世代、川路聖謨と高子夫妻はもっと微笑ましい逸話が残されております。

栄一と千代という極めて厳しい夫婦の姿は幕末ならではのものといえました。

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