明治の近代化は、ほとんど彼の構想を模倣したに過ぎない――大隈重信はそう語りました。
司馬遼太郎は、彼のことを「明治の父」と呼びました。
木戸孝允は、幕府の改革を目の当たりにし、徳川慶喜のことを「家康公の再来か!」と感嘆しましたが、実際は、そうした改革も有能な幕臣たちが立案したものでした。
では、立案したのは具体的に誰か?
筆頭にいたのが“彼”こと小栗忠順(おぐりただまさ)。
常人には無い慧眼でもって日本の未来を描いていながら、慶応4年(1868年)閏4月6日、いわれなき冤罪により処刑されてしまった悲運の幕臣なのです。
果たして小栗とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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文武の才あれど頑固で風変わりな旗本
文政10年(1827年)。
安祥譜代(あんじょうふだい・松平氏以来の家臣)禄高2千5百石の小栗家に、男児が生まれました。
神田駿河台にて生を受けたこの子は剛太郎(以降、忠順)。忠高と邦子夫妻にとって、夭折せずに育った一人の子となりました。
父の忠高は小栗家に末期養子として入っており、同家一人娘である邦子の成長を待って結婚していました。
同年に生まれた人物には、西郷隆盛、山内容堂、河井継之助がいます。
そんな家に生まれた小栗忠順は、安積艮斎の私塾「見山楼」ではぼーっとしていて、そこまで賢そうには思えなかったと伝わります。
際立っていたのはいじっぱりな性格で、強固な意思で友達を顎で使い回す姿。いつしか「頑童」と噂されるようになりました。自分とは話にならないと判断した相手には、とにかく冷淡でもありました。
忠順は14歳の頃になると、文武の才と、風変わりなところが目立ってきます。
煙管でタバコをふかし、目上の大人相手に一歩も引かず「フン、フン」と相槌を打つ。この生意気な少年は一体どうなるのか? 周りはそう噂するばかり。
賢いといえばそうだが、どうにも理屈ぽくてかなわん。あいつはなんだ、天狗か? 狂人か? 冷腸漢(風情を理解しない男)か?
そうした証拠や証言が残されています。
忠順はやたらと細かく、当時の暮らしぶりがわかるほどの家計簿をつけていましたが、反面、情緒的な文章は残さず。ゆえに彼の事績を辿るためには、周囲の証言が重要となってきます。
例えば、花見に行ったとき。
花にも美人にも目もくれず、気にするのは水利や川の堤防のことばかりで、周囲の人たちもうんざり。
詩を詠むわけでもない。酒にも興味がない。書画に興味があるのかないのかもわからない。骨董品にも興味を示さないくせに、名人が描きあげたものは価値を納得して買い求めてゆく。
武術については剣、馬、弓のみならず、砲術の重要性を理解して習い、航海術や造船にも興味津々でした。
こうした技術を学ぶうちに、黒船来航よりもはるか前に、結城啓之助との対話を経て「開国論」にまで到達するほどだったのです。
「本多上野介に吉良上野介」「関係ないね」
天保14年(1843年)。
小栗忠順は17歳で登城を果たしました。
あまりにズケズケとした物言いだけに、反発を買って左遷されることはあったものの、突出した才能があるため、飛ばされては復職を果たすことを繰り返しました。
嘉永2年(1849年)には、林田藩前藩主・建部政醇の娘である道子と結婚しています。
彼は目の前で見たことにより判断を下し、理論を信じていました。そして迷信の類を嫌っていました。
例えば「上野介」を名乗るようになったとき、周囲はこう言います。
「上野介ねえ。本多上野介(本多正純)に吉良上野介(吉良義央)だろ。縁起が良くないなぁ」
「なァに、名前で人が変わるものかよ」
忠順の本質は、幼少期から完成していたのでしょう。
理屈ぽく、その見通しは当たる。一方で、頑固で世渡りが下手なため衝突してしまう。
そして迎えた嘉永6年(1853年)。
ペリーが来航。激動の時代が訪れました。
2年後の安政2年(1855年)、父が病死すると29歳で小栗家を相続します。
安政4年(1857年)に御使番、安政6年(1859年)には本丸御目付となり、その十日後には遣米施設目付任じられました。
かくして小栗忠順は世に出たのです。
井伊直弼に抜擢され、アメリカへ
ペリー来航後、幕政は騒然とします。
安政5年(1858年)、幕臣・岩瀬忠震とハリスが交渉し、締結された【日米修好通商条約】の中には、日本側の使節がワシントンで条約書を交換するという条件がありました。
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そのため幕府は遣米使節を編成するのですが、このとき大老・井伊直弼はある問題を精査したいと考えていました。
アメリカへ日本の小判がむやみに持ち出されている。
ドルの価値を見定めねばならぬ。
それができるほど経済に通じている適任者は誰か?
白羽の矢が立たったのが、他ならぬ小栗忠順――かくして77名の使節団にその名が加えられたのです。
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正使・新見正興が乗船するポーハタン号に、忠順は遣米使節目付として乗り込みました。
この「目付」がなぜか「スパイ」と英訳されてしまい、自ら名乗るスパイとは何ごとか?と疑念に思われたとか。
二ヶ月の船旅ではひどい船酔いに悩まされ、皆顔面蒼白となりつつ、ハワイを経由し、アメリカへ向かってゆきました。
3月18日、サンフランシスコに到着すると、汽車に乗りました。このとき忠順と思われる日本人が質問をしていたことが記録されています。
「建設費はどれほどかかりましたか?」
「建設資金はどのように調達したのですか?」
ペリー来航時から、船の構造を探る奴がいる。アメリカでは汽車の建設費用を聞いてくる奴がいる……そんな好奇心がそこにはあります。幕臣たちは保守的で消極的だったわけではありません。
一行がワシントンに着くと、好奇心旺盛な人々の目線が待っていました。
「あれが男? なんだか女みたいだなぁ」
「あの刀はなんだ? なんで二本も差しているんだろう?」
「あの剃った頭はいったいなんなんだろう?」
「ダボっとしたズボンだねえ。あの上着は肉屋っぽい。サンダルはなんだろう?」
大興奮で歓迎の声が巻き起こりました。
最年少17歳の立石斧次郎は、愛くるしい見た目と愛嬌のある性格ゆえ、アイドルになったほど。「トミー・ポルカ」という歌まで作られ、全米からプレゼントや手紙が届いたとか。
トミーの人気はアイドルとしてのものですが、幕府が送り出した三使(正史・副使・補佐)は政治的な意味で注目の的です。
『ニューヨーク・ヘラルド』は、忠順のことをこう記しました。
「活気と知性、威厳、意思力があり、使節団の中でも最も油断ならぬ人物である」
彼はアメリカの目から見ても、只者ではなかったのです。
そんな忠順の好奇心は、海軍製鉄所で見た製鉄に最も惹きつけられました。
木材や竹に頼った日本は火災に弱い。鉄が貴重で、火災の後は焼け跡から鉄を拾って使い直す。
砂鉄をたたらで生産する日本と、鉄鉱石を高炉で溶かす製鉄ではまるでちがう。
どうすれば日本でも大量製鉄ができるようになるのか?
そのことを痛感させられたのです。
そしてこのとき忠順が持ち帰った“ネジ”こそが、日本近代化の象徴とされ、現在も群馬県高崎市東善寺に保管されています。
『青天を衝け』では、このネジを舌の上に載せた状態で忠順が斬首されました。
切腹とは厳粛なものであり、舌を出してネジを見せながら挑むというのはむしろ屈辱的に思えます。残念な場面でした。
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