正応二年(1289年)8月23日は一遍上人の命日です。
国指定重要文化財の「木造一遍上人立像」が焼失したというニュースが2013年にありましたので、薄っすらと記憶にある方もおられるでしょうか。
1239年の生まれなので、ちょうど50歳で亡くなったんですね(数えで享年51)。
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弱肉強食のニューワールド
お坊さんというと「ただお寺にこもってブツブツ言ってるだけだろ」と思う方も多いかもしれません。
が、この時代の僧侶はなかなか波乱万丈の人生を送っています。
時代としては鎌倉幕府ができて、源氏の直系将軍が絶え、北条氏が権力を握っていた頃。
同時期のビッグイベントと言えばやはり元寇(1274年と1281年)ですね。
※以下は「元寇」関連記事となります
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
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武士系貴族の源氏が天下をとったかと思ったら、次によくわからない田舎の武士が事実上のトップになり、挙句の果てにモンゴル軍が攻めて来るのですから、もう、すべてが弱肉強食のニューワールドです。
こうした社会情勢だからでしょうか。この時期には一遍を始めとして様々なお坊さんが新しい仏教を説いていました。
苦しくなると神仏頼みになるのは今も昔も変わりませんね。
6つくらい仏教のスタイルがまとめられた表を、歴史の授業で暗記させられ、辛い思いをした人もいるのでは?
ですね。
庶民に鎌倉仏教が広がった
多くの人に仏教を説いて理解してもらうためには、そもそもお経の中にある言葉がわからないといけません。
しかし、当時の日本は大多数が農民。
学問を身に着けた人はごくわずかです。
そんな状態では、今までと同じ方法で仏様の教えを広めようとしても上手くいきません。
そこで「もっと簡単な方法で仏様に助けを求められないか?」と考え出されたのがこれらの鎌倉仏教なのです。
浄土宗は 「こまけぇことこたぁいいんだよ!みんなで”南無阿弥陀仏”って唱えればおk!」
臨済宗は「ちょっと腰を落ち着けて、先生の出すクイズ(公案問答)を説こうぜ」
というように、お経の意味がわからなくても大丈夫な方法が考え出されていきました。
では一遍の時宗はどうだったか?
というと、これは彼の生涯と深く関わっています。
愛媛県松山市で生まれた一遍は10歳で母親を亡くしたことをきっかけに出家。
25歳のときに父親も亡くし、一度、還俗(お坊さんをやめること)して故郷に帰るのですが、親族の相続争いなどを目の当たりにしてイヤになった彼は再び出家しました。
領地などが関わっていたそうなので、結構エゲツない状態だったのかもしれません。
その後は放浪しながら各地のお寺で修行を積みました。
このあたりから「一般の人々にも仏教を広め、安心してもらおう」という考えが芽生えていたのでしょう。
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