天明6年8月25日(1786年9月17日)は十代将軍・徳川家治の命日です。
時折しも大河ドラマ『べらぼう』の劇中で毒を盛られて、亡くなったばかり。
かつてはとにかく地味な将軍という扱いでしたが、『べらぼう』で眞島秀和さんが演じられてからは「もしかして名君だったのか?」と見方がガラッと変わった方もおられるでしょう。
なんせ劇中では、多くの幕閣や江戸の民が田沼意次を「銭の亡者」と罵る中で、家治だけは、意次の政策「米から銭へ」という真意を理解し、全面的にバックアップしていたのです。
あの姿は史実的にも正しいものだったのか?
本記事で、徳川家治の生涯を振り返ってみましょう。

徳川家治/wikipediaより引用
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江戸幕府中興の祖・徳川吉宗の嫡孫
江戸幕府中興の祖と後世に評されている八代将軍・徳川吉宗。
彼には悩みがありました。
嫡男である九代・徳川家重が言語不明瞭であり、酒色に溺れ、将軍としての資質に疑念を抱かれかねなかったのです。

徳川家重/wikipediaより引用
元文2年5月22日(1737年6月20日)、そんな家重に嫡男が生まれました。
幼名が家康以来の「竹千代」とされたことからも、周囲の期待がうかがえる徳川家治――。
母は側室のお幸でした。
お幸は家重に対し、あまりに酒食に耽ることを諫めたため、座敷牢に監禁されてしまいます。
「世継ぎの母に為すべきことではない」
そう諫言されて釈放されるも、その後、家重の足が彼女の元へ向かうことは二度とありませんでした。
そんな両親のもとに生まれた竹千代は、幼いころより聡明であり、吉宗はこの嫡孫に将軍の資質を見出し、大層可愛がります。
寛保元年 (1741年)8月、竹千代は元服し、権大納言に叙任されたのでした。
正室・五十宮倫子とは相思相愛
延享5年(1748年)、家治の母であるお幸が没しました。
吉宗は、母を失った孫のために、正室を早く迎えようとします。
そして翌寛延2年(1749年)、京都から直仁親王(なおひとしんのう)の娘・五十宮倫子が江戸城に着きました。
寛延4年(1751年)には吉宗が亡くなったこともあり、正式な婚礼はまだ成立しません。

徳川吉宗/wikipediaより引用
それがかえって一歳ちがいの二人にはよかったのか、淡い恋心が育まれてゆきます。
宝暦4年(1754年)12月、二人はやっと婚礼をあげました。
将軍は京都から公卿出身の正室を迎えることは慣例ですが、寵愛することはまずありません。
しかし、長い恋を育んできた家治と倫子は仲睦まじいものでした。祖父の吉宗や父の家重とは異なり、家治自身は色に溺れることもありません。
婚礼の翌年、夫妻は千代姫を授かります。
が、この姫は夭折。それから四年のち、倫子が再び懐妊します。
今度こそお世継ぎではないか?と皆が期待をしたところ、生まれたのは再び姫でした。
万寿と名付けられた姫を夫妻はかわいがるものの、世継ぎができないことは深刻な問題となります。
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