北条早雲

北条早雲/wikipediaより引用

北条家

北条早雲の生涯|幕府の奉公衆・伊勢宗瑞が戦乱激しい関東へ進出を果たす

2025/08/15

相模に根付き、関東全域に影響を与えた後北条氏の始祖・北条早雲。

その出自や経歴を考えると、実は「伊勢宗瑞」あるいは「伊勢新九郎」という名前のほうがより正しいと考えられています。

後述しますが、元々は室町幕府の名門官僚の出なのです。

永正16年(1519年)8月15日はそんな北条早雲の命日。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用

本記事で生涯を振り返ってみましょう。

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室町幕府のエリート武士だった

北条早雲、本人の話の前に……。

戦国ゲームやマンガにおける「北条氏」って、かなり有名ですよね?

特に北条氏康は、武田信玄や上杉謙信と五分に渡り合い、関東No.1の武将に考えられるような存在。

北条氏康/wikipediaより引用

その氏康の息子である北条氏政と、孫の北条氏直が、秀吉に小田原を滅ぼされますが、彼ら親子が降伏する1590年まで北条は関東でも最大の大名でした。

早雲から続く北条一族を整理しておきますと……。

1代 北条早雲

2代 北条氏綱

3代 北条氏康

4代 北条氏政

5代 北条氏直

早雲から始まり5代で滅亡したということになります。

では、北条氏はいかにして始まったのか?

古い戦国本になりますと、

「一介の浪人が今川氏や足利氏のトラブルに乗じて城を乗っ取り、下剋上で勢力を拡大した」

なんて解説がありますが、現在ではほぼ否定されています。

出自に関して様々な説がある早雲も、近年では

「父は伊勢盛定、母は京都伊勢氏当主かつ政所執事・伊勢貞国の娘である」

「本人は伊勢宗瑞(伊勢新九郎)である」

というのが有力です。

しかも、伊勢氏は単なる浪人なんかじゃありません。

父の盛定は、政所執事の伊勢貞親と共に、室町幕府八代将軍・足利義政の申次衆(将軍と武士を取り次ぐ役目の官僚)だったとされる人物です。

足利義政/wikipediaより引用

伊勢貞親は足利義政の育ての親ともいえる立場ですから【応仁の乱】前後によく出てくる名前。

そんな名門出身の北条早雲は、自身は「北条氏」を名乗っていません。

息子・北条氏綱の代からでした。

父の死後しばらく経った大永三~四年(1523~1524年)あたりとされています。

 


姉が今川家に嫁ぎ氏親を産む

早雲の血縁者としては、姉or妹とされる北川殿も重要です。

彼女は駿河守護・今川義忠の正室だと考えられています。

北川殿が文明五年(1473年)に産んだ今川氏の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と、早雲の関係も大きなポイント。

名門今川家の当主が甥っ子にいるというわけで、早雲自体の出自もなかなかの位であったことが想像できますね。

ただし生年は不明でして、現在有力な説が康正二年(1456年)。

その27年後の文明十五年(1483年)に九代将軍・足利義尚の申次衆に任命されているので、まあ打倒な生年でしょうか。

足利義尚/wikipediaより引用

その前に足利義視に仕えていたとされる時期もあります。

この説で行くとその頃10歳程度になってしまうため、義視には仕えていないかもしれません。

まあその辺は今後の研究で明らかになるとして、先へ進みましょう。

早雲は、1487年に奉公衆(幕府の武官)に任命されると、幕府に仕えながら、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたとされています。

これは彼の人生観に大きく影響を与えました。

 

内紛につけ込まれた今川を救うべく……

後北条氏といえば関東ですよね。

元は幕府の中核にいた彼が東国へ向かったきっかけは、文明八年(1476年)に姉の夫である今川義忠が、(味方のはずの)東軍・斯波義良の家臣に討たれてしまったことでした。

早雲から見て甥っ子でもある今川龍王丸はまだ幼く、戦乱真っ只中の駿河を背負うには頼りなさすぎ。

このため今川氏の家臣である三浦氏や朝比奈氏などが、今川義忠の従兄弟である小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立して、家中が二分される家督争いが始まってしまいました。

すぐ近くに外敵がいるのに何やっとるんじゃ……って、戦国時代はこういうお家騒動ばかりですね。

「早く次の当主を決めなければ! そのためなら手段は選ばない!!」

将軍家にも連なる名門・今川家は、そんな状況に陥っておりました。

この今川の騒動に介入しようとしたのが、堀越公方・足利政知(義政の異母兄)と扇谷上杉家です。

堀越公方からは執事の上杉政憲、扇谷上杉家からは家宰の太田道灌(最初の江戸城を作った人)が兵を率いて駿河へ。

完全にヤル気満々です。

太田道灌/wikipediaより引用

小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も範満方としてやってきたといわれています。

つまり、龍王丸派は圧倒的不利な状況でした。

そこで甥っ子のために下向してきたのが早雲というわけです。

父・盛定らの命であり、実際、早雲は有能でした。

上杉政憲と太田道灌を騙すようなカタチで撤兵させ「龍王丸が成人するまで、範満が当主を代行する」という案を出し、(少なくともこのときは)話を丸く収めるのです。

龍王丸派と範満派、それぞれに浅間神社で神水を酌み交わして、和議を誓わせたそうで。

範満は駿河館に入り、龍王丸は母・北川殿と小川城(焼津市)へ移って成長を待つことになります。

念押しのためでしょう。

文明十一年(1479年)には、前将軍・足利義政から【龍王丸の家督継承を認める書類】が発行されていました。

 

早雲はやっぱりデキる人

しかし、時が過ぎ、龍王丸が15歳を過ぎても、範満は家督を戻そうとしません。もはや様式美ですね。

早雲が奉公衆に任命されるのは、この間のこと。

長享元年(1487年)にも再び駿河へ行くのですが、このときも奉公衆という肩書が多少なりとも役に立ったものと思われます。

とはいえ、年号を見てもわかる通り、既に応仁の乱が終わっており、関東も享徳の乱がやっと終わったところなので、全体的には「幕府の権威ってwww」みたいな感じだったかもしれません。

しかし、早雲はやっぱりデキる人でした。

甥っ子・龍王丸を補佐して石脇城(現・静岡県焼津市)に入り、兵を集めて軍を蜂起。

そのまま駿河館を攻め、範満とその弟・小鹿孫五郎をさっさと始末してしまうのです。なんたる早業。

晴れて龍王丸は駿河館へ移り、2年後には元服して「氏親」を名乗り、正式に今川家当主となります。

今川氏親は、あの今川義元の父ですから、早雲がいなければ【桶狭間の戦い】も起きず、日本史に大きな影響を与えたかもしれません。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

ともかくこの功績により、早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現・沼津市)に所領を与えられました。

本人は駿河に留まって氏親の補佐をしていたため、守護代の地位にあったとも考えられています。

早雲はこの頃、幕府奉公衆の一人である小笠原政清の娘・南陽院殿と結婚。

長享元年(1487年)に嫡男の北条氏綱が生まれているので、夫婦仲はいいほうだったんでしょうね。

 


中央の思惑に対し地方グループが……

さて伊豆近くに所領を得てからは、すぐそばに根付いていた堀越公方・足利政知との関係が重要になってきます。

政知には三人の息子がいました。

長男・茶々丸、次男・清晃(のちの足利義澄)、そして三男・潤童子です。

もともと足利政知は、義政の命令で新しい鎌倉公方になるはずだったのに、永享の乱のせいで宙ぶらりん状態になったという経緯があります。

そのため京都や奈良では「政知は義政を恨んでおり、そのうち清晃を還俗させて次の将軍に擁立するつもりだ」という噂が立っていたそうで。

その陰謀に早雲と今川氏親が関与していたとか、いないとか……そんな噂話に尾ひれがついておりました。

要は「足利義政・日野富子・足利義尚の親子に対し、足利政知・北条早雲・今川氏親の地方グループが組んでクーデターをしようとしていた」という話です。

早雲からすれば足利義尚は直接仕えていた主君です。

もしかしたら「義尚様に跡継ぎが生まれなければ」という考えはあったかもしれません。

しかしそれが実行されるより早く、政知が延徳三年(1491年)4月に亡くなってしまいます。

そしてその三ヶ月後の同年7月、茶々丸が潤童子とその母・円満院をブッコロすという物騒極まりない事件が起きるのでした。

 

素行が悪い茶々丸「土牢に軟禁」なんて説も

普通なら、茶々丸のほうが年長ですからスムーズに家督を継げるはずでした。

しかし、日頃の行いが影響しまして……茶々丸は幼い頃から素行が悪く、政知に冷遇されていたのです。

「土牢に軟禁されていた」なんて説まであるくらいですから、よほどだったのでしょう。

ただ、素行の悪さについては円満院の讒言だとか、政知の死後は円満院に虐待されたという話まであり、何ともいえません。

いずれにせよ1470年代生まれと見られる茶々丸が、20歳を超えても元服していなかったのはほぼ確実なので、よほどの事情があったのは間違いなさそうです。

更にはこの間、九代将軍の足利義尚が亡くなり、十代将軍・足利義稙(当時は義材)になっていました。

足利義稙/wikipediaより引用

そこで起きたのが【明応の政変】です。

明応二年(1493年)4月、管領・細川政元は足利義稙を追い出し、茶々丸の異母弟かつ潤童子の同母兄である清晃を将軍に擁立しました。

清晃は還俗して義遐、のちに足利義澄と名を改めます。

足利義澄/wikipediaより引用

義澄にとって茶々丸は、実母と実弟の仇です。

仇討ちのため、実力があり現地にも近い北条早雲に出兵を命じました。

実は早雲は、延徳三年(1491年)5月~明応四年(1495年)あたりに出家しており、これをもって幕府の役職・奉公衆を辞めたとも考えられているのですが、義澄はそんなことお構いなしだったようです。

まあ、この時点ではまだ家督を譲ってませんからね(長男・氏綱はまだ幼児)。

義澄からすると

「アイツ、跡継ぎの話をしてこないってことはまだバリバリ仕事できるんだよな?

出家したらしいけど、病気とかじゃないっぽいな。なら俺の仇討ちに付き合えよ^^」

ぐらいに考えていたんですかね。

 


将軍家や有力大名を巻き込んだ一大争い

命を受けた北条早雲は、明応二年(1493年)の夏~秋頃に、堀越御所の茶々丸を攻撃。

このとき、茶々丸に味方してしかるべきはずの伊豆の豪族たちも、早雲についたと言いますから、本人の人望のなさ・評判の悪さがうかがえます。

といっても茶々丸だって簡単にはやられません。

堀越御所から逃亡すると、近隣の武田氏や山内上杉氏などを味方につけて、数年間抵抗し続けるのです。

早雲も伊豆の国人たちを後ろ盾に、少しずつ茶々丸を追い詰めていきました。

この辺から、こんな構図が出来上がって参ります。

・足利義澄
・細川政元
・今川氏親
・北条早雲

vs

・足利義稙
・大内政弘
・足利茶々丸
・武田信縄
・上杉顕定

足利義稙と大内政弘、そして茶々丸の連携が機能していたかどうかは怪しい気がしますが……仮に、ここで早雲が上方へ戻っていたとしたら、義稙たちにとっては脅威になりかねません。

茶々丸に踏ん張らせて足止めさせる――というのは遠交近攻の道理に適っています。

早雲は、茶々丸の捜索(討伐)のため、明応四年(1495年)に甲斐へ攻め入り、甲斐守護・武田信縄(信玄の祖父)とも甲斐と伊豆の国境付近で戦いました。

上記の通り茶々丸は、ときの将軍・義澄の母と弟の仇です。

その捜索と討伐に抵抗するというのは、名門・武田氏といえども立場的にマズそうなもんですが(おまけに甲斐の守護に戻ったばかり)、それだけ官位や幕府の意味が薄れていたのですね。

 

伊豆の韮山城を本拠にジワジワ追い詰め

後に後北条氏の本拠となる小田原城を奪取したのは、甲斐を攻めたのと同年9月ごろとされています。

これまた時期については異説がありますが、残っている書類からすると、少なくとも明応十年=文亀元年(1501年)までには小田原城を取っていたはず。誤差があっても数年程度でしょう。

小田原城を攻めた理由は、当時の城主・大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為と考えられています。

なお早雲自身は、その後も【伊豆の韮山城】を本拠としています。

後北条氏=小田原のイメージですから、これは意外に感じる方も多いかもしれません。

北条早雲の伊豆討ち入り/イラスト by 味っ子 wikipediaより引用

かくして徐々に茶々丸を追い詰めていった早雲。

明応七年(1498年)8月、南伊豆の深根城(現・静岡県下田市)を落とし、茶々丸を自害させてようやくこの問題を解決しました。

足利茶々丸公方墓/photo by 文屋将監 wikipediaより引用

実は、この直前、東海道沖を震源とする【明応の地震】が起きていました。

いわゆる南海トラフ巨大地震であり、東は房総半島、西は紀伊という超広範囲に渡って大きく揺れたと記録され、推定マグニチュードは8.3~8.6とも言われています。

元は淡水湖だった浜名湖に津波が押し寄せ、周囲の土砂を削り取って汽水湖(海水と淡水が入り交じる)にしたのもこの地震です。

当然ながら、早雲と茶々丸がいがみ合っていた伊豆・駿河にも揺れや津波が来襲し、両軍に甚大な被害をもたらしました。

早雲はそれを逆手に取り、動ける者を集めて深根城城主・関戸吉信らを皆殺しにして茶々丸を追いこんだのだそうです。

この辺にも異説として、

「茶々丸は甲斐で亡くなった」

「深根城の皆殺しは別件」

などがありますが、いずれにせよ早雲のキレっぷりがわかりますね。

【屋島の戦い】の際、源義経が「こんな嵐の中を攻めてくるなんて平家は思ってないから、むしろ奇襲する好機!」と押し切って船を出した話と似た作戦ですね。

もし彼らが同じ時代に生きていたら、意気投合したか、同族嫌悪で徹底的にやりあったか……。

 


「二本の大きな杉の木を倒した鼠は虎になった」

早雲の電光石火な行軍により、宙ぶらりんだった堀越公方問題は、全滅という血なまぐさい形でカタがつきました。

元々は足利義政の命令で足利政知も下向してきたので、幕府側である早雲が討つのは何だかなぁという気もしますが……。

全ては足利持氏(四代目の鎌倉公方で、六代将軍・足利義教とケンカして最終的に鎌倉府を滅亡させた人)が悪いんや。

足利持氏自害の図/wikipediaより引用

早雲はこの間、今川氏の親戚としても動いていたようです。

明応三年(1494年)頃から今川の兵を指揮して三河や遠江にも攻め込み、16世紀に入った頃には松平長親(徳川家康の高祖父)と戦闘。

これまでの経緯もあって、早雲と氏親は比較的親密であり、連携して領地を広げていったようです。

一方その頃、関東の北部では、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛「長享の乱(1487-1505年)」が再燃していました。

なぜ同族で争っていたのか?というと、享徳の乱の終盤に内輪モメが始まり、それが尾を引いていたんですね。だから、何やってんのよ……。

早雲は扇谷家の上杉定正につきました。

しかし、山内家当主で関東管領でもある上杉顕定との対陣中に、定正が”うっかり”落馬して亡くなったため地元に帰っています。

他に、扇谷上杉氏は相模の三浦氏と大森氏も頼みにしていたのですが、この年に当主の三浦時高・大森氏頼が相次いで亡くなり、大きく力を削がれてしまいました。

死因は、時高が自害あるいは病死、氏頼は寿命か病死とされています。

時高と氏頼は二人とも1410年代生まれなので、充分すぎるほど長生きではあるのですが……あまりにもタイミングが良すぎて、必殺仕事人(直喩)でも暗躍していそうなかほりがしますね。

この時代の「落馬で事故死」の信憑性は、現代における「心不全」とどっこいどっこいですし。

このとき早雲が、こんな夢を見たという話があります。

「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、その鼠は虎になった」

英雄譚によくある「夢のお告げ」というやつっすな。

二本の杉は山内上杉家と扇谷上杉家であり、鼠は子年生まれの早雲のことを指す、とされています。

いかにも戦国時代の人かつ野心家らしい夢ではありますが、何だか「ぼくのかんがえたかっこいいしゅっせほうほう」みたいな感じですね。さすがに出来すぎなので、フィクションの可能性が高そうですけれども。

そして本来は鎌倉府の主だったのに、早雲の夢でさえ触れられない古河公方って……。

 

小田原を中心に内政にもチカラを入れ始める

その後、北条早雲は相模~南関東制圧に進出します。

これに立ちはだかったのが上杉顕定。

早雲の後ろ盾にも等しかった足利義澄と細川政元に接近し、これに対抗するため早雲も足利義稙と大内政弘に近づきました。なんだか応仁の乱で似たような構図があったような……。

上杉氏に対しては、定正の甥である上杉朝良が新しく扇谷家当主になったため、彼に味方しています。

また、ここでも今川氏親と組んで、永正元年(1504年)8月の立河原の戦いに挑み、上杉顕定に勝利しました。

おじと甥でこんなに連携するのもなかなか珍しいですね。

しかし、上杉顕定は弟の越後守護・上杉房能とその守護代(家臣)である長尾能景の援軍を得て相模へ転身、扇谷家の城を次々に攻略します。

河越城に追い詰められた朝良のほうが、先に山内家へ降伏してしまいました。

このため、早雲は山内家・扇谷家両系統の上杉氏と対立するハメに……。

手を貸した相手が先に降伏してしまったのですから、早雲としては自分も降伏するか、まとめて相手にするかの二択しかありません。

一方、この頃の早雲は、小田原を中心に内政にも力を入れ始めています。

例えば、永正元年(1504年)には、京都の医者・陳定治を小田原に招いて

透頂香(とうちんこう・現在では「外郎(ういろう)薬」・和菓子のういろうとは別物)

の製造・販売をスタート。

永正三年(1506年)には、相模で初の検地を敢行しております。

外交や合戦のややこしい時期に、同時にこんなことをこなせるのは、やはり相当に頭がいいというか器用なタイプなんですね。

 

関東進出へ向けて激アツチャンスが訪れる

さて、ここでもう一度上方の情勢をみてみましょう。

永正四年(1507年)、細川政元がいつまでも跡継ぎをはっきり決めないせいで、養子の一人である細川澄之にブッコロされました。

細川政元/wikipediaより引用

これをきっかけとする【永正の錯乱】により、細川家が内紛をおっぱじめます。

さらにその直後、政元と結んでいた越後守護・上杉房能が、守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺害されています。

この混乱を好機と見て、京都から閉め出されていた足利義稙と、その庇護者だった大内義興が上洛。

足利義稙が将軍に返り咲きました。

早雲と氏親にとっては、自分たちに有利な人々が中央政権に戻ったことになりますね。後顧の憂いがなくなったともいえます。

そのためか、永正六年(1509年)以降の早雲は、今川氏の親戚としての活動がほとんどなくなり、相模を含めた南関東攻略に集中するようになります。

氏親もこの間、藤原北家の流れをくむ正室・寿桂尼を迎えていました。

寿桂尼/wikipediaより引用

年齢としても30を超えて、名実ともに叔父から独立すべき段階だったのでしょう。

とはいえ、そうさっさと進むことはできません。

扇谷上杉氏のシマだった江戸城まで攻め込もうとして、逆に押し込まれて小田原城まで迫られ、和睦したこともあります。

しかし、それから程なくして山内上杉氏の当主・上杉顕定が長尾為景に敗れて自害。

後継者の地位を巡って、顕定の二人の養子・顕実と憲房の争いが発生します。

さらに、古河公方家でも足利政氏・高基父子が対立……と、早雲にとっては激アツチャンスが訪れます。

扇谷上杉氏の当主・上杉朝良がこれらの調停に追われ、隙が見え始めたのです。

 

三浦氏を滅ぼし、ついに相模の覇者となる

早雲から見て、目下一番の攻略目標は相模の三浦半島でした。

地図を見てもらうとわかりやすいのですが、三浦半島は小田原と江戸の中間地点にあり、扇谷上杉氏の家臣となった三浦氏の拠点でもありました。

ちなみにこの三浦氏は、源頼朝の重臣だったあの三浦氏の傍流子孫です。

こういうパターンは、「滅亡」と「全滅」が同義ではないことがわかりますね。

戦略を切り替えた早雲は、永正九年(1512年)8月以降、相模の城を次々と攻略。

扇谷上杉氏から三浦氏側に援軍が来ましたが、これも追い返しました。

そして四年がかりで三浦氏を滅ぼし、相模の勝者となります。

この途中で早雲は鎌倉にも行っており、こんな歌を詠んだといわれています。

「枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」

【意訳】今は枯れた木のようなこの場所に、また花咲く木を植え直して、元の立派な町に戻してみせよう

早雲の意気込みと、永享の乱以降荒れる一方だった鎌倉の姿が伺える一句ですね。

その後の早雲は、上総の真里谷武田氏(※)を支援するため房総半島に渡り、永正十四年(1517年)まで転戦。

真里谷武田氏は自分のところのお家騒動に加え、古河公方家のお家騒動で逃げてきた足利義明を迎えて「小弓公方」にしており、火種が多すぎて地雷原になっていました。

だから、なんでどこの家も「内紛を起こせば他家に手と口を出されてグダグダになる」ことがわからないんですかね……。

早雲が亡くなったのが永正十六年(1519年)であることを考えると、亡くなる二年前まで現役で戦場に出ていたことになります。すげえ。

ちなみに、嫡子・北条氏綱に家督を譲ったのも永正十五年(1518年)というギリギリっぷりなので、上総から手を引いたのは自身の健康に不安を感じ始めたからなのかもしれません。

北条氏綱/wikipediaより引用

 

税負担の軽い「四公六民」を導入す

上記の通り、早雲の生年がまだはっきりしないので、享年も諸説あります。

今のところは、享年64説がやや優勢ながら、享年88説も存在。

後者の場合ですと、86才まで現役で戦をやってたことになるわけで……さすがにそれはちょっと。

また、死の前年から早雲は虎の印判状を用いており、「印判状のない徴収は無効」という決まりを作っていました。

これによって、代官が百姓や職人から無理やり税を取ることを禁じたのです。

さらには後北条氏の領内での年貢を「四公六民」、つまり「四割を殿様に収め、六割は農民のものにしていい」としたのも、早雲からだとされています。

当時としては低いほうの税率でした。

他、分国法のはしりとされる「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」も定めたとされていますが、当人の手によるものかどうかは不明。

中身は法律というより家訓に近く平易なもので、禅宗や御成敗式目の影響と思われる点がみられます。

こうした早雲の内政の上手さや、代々正室から男子が生まれて、お家騒動が起きにくい状況だったことなどが功を奏して、元々はよそ者だった後北条氏が安定した基盤を築くことができたのでしょうね。

廿一箇条の一部や、他の早雲の逸話は小田原市のホームページでたくさん見られるので、中身が気になる方はそちらで検索してみてください。

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※真里谷武田氏(まりやつたけだし)……武田信満の子・武田信長に始まる上総武田氏の分家。

血縁関係としては以下の通りとなります。

甲斐武田氏第13代・武田信満

信満の次男&上総武田氏初代・武田信長

上総武田氏二代・武田信高

信高の子&真里谷氏初代・真里谷信興

信興の子・信勝←この方が早雲時代の真里谷氏当主

【参考】
国史大辞典「北条早雲」
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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