加納久通

江戸時代

加納久通の生涯|ドラマで注目される吉宗の側近は史実でどんな人物か?

2025/08/16

『暴れん坊将軍』は、ご存知、八代将軍吉宗が暴れるという痛快時代劇。

そもそも、なぜ将軍が暴れなければならんの?

と、言いたいことは山ほどある設定ですが、劇中、その将軍の暴れっぷりに悩まされる側近たちがいます。

御側御用取次役(おそばごようとりつぎやく)です。

幼少期から吉宗を見てきた「爺」と呼ばれる存在であり、

・加納五郎左衛門忠久

・有馬彦右衛門

・田之倉孫兵衛または宍戸官兵衛

という上記3名がトリオになっています。

このうち有馬と加納にはモデルがいまして、今回、注目したいのが加納。

『暴れん坊将軍』では有島一郎さんと伊東四朗さんが演じていた好々爺であり、史実においては吉宗の側近だった加納久通(かのうひさみち)です。

男女逆転版のNHKドラマ10『大奥』では貫地谷しほりさんが素晴らしい演技で魅せたこの人物。

一体どのような経歴の持ち主だったのか?

寛延元年(1748年)8月17日が命日である、加納久通の生涯を振り返ってみましょう。

 


「爺」ではなく「片腕」

『暴れん坊将軍』の印象が強いせいか。

加納久通にはかなり年輩なイメージが付き纏い、男女逆転版『大奥』の貫地谷しほりさんでは若いようにも思えます。

史実では一体どうだったのか?

徳川吉宗:貞享元年(1684年)10月21日誕生

加納久通:延宝元年(1673年)

実は、一回りほどしか年齢差はないんですね。

どちらかというと兄貴分的な家臣であり、「爺」はあくまで作劇場のモチーフだということで、あの人物像は一旦忘れたほうが良さそうです。

1995年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では小林稔侍さんが、傅役として側近として、その生涯を吉宗に捧げていましたが、男女逆転版『大奥』の方が史実に近い像となります。

徳川吉宗/wikipediaより引用

 


紀州藩士から吉宗側近へ

徳川吉宗には錚々たるブレーンが揃っています。

中でも大岡忠相(ただすけ)は時代劇『大岡越前』のおかげで知名度が抜群。

実際の忠相も、吉宗の手足となり、江戸町奉行で活躍しました。

大岡越前守忠相/wikipediaより引用

当時の政治をドラマで描くのであれば、こうした人物が目立つかもしれませんが、こと将軍の私生活となると、クローズアップする対象は異なります。

それが、紀州時代からの側近だった加納久通と有馬氏倫(ありまうじのり)のコンビです。

二人の性格は対照的とされ、有馬が激烈、加納は温厚とされています。

そんな加納久通は延宝元年(1673年)、紀州藩士・加納政直の子として紀州和歌山城下で生まれました。

11年後の貞享元年(1684年)、 2代紀州藩主・徳川光貞に四男の源六が誕生。

生母は身分の低い側室・お紋であり、この時点で源六には三人の兄がいて、うち一人は夭折するも源六の跡目相続はほとんど無いものでした。

そのためか源六は、家老・加納政直の家に預けられ、政直の子である加納久通とは兄弟のように育ちます。

程なくして源六は元服して「頼方(よりかた)」となりました。

もしも何事もなければ、この主従はひっそりと紀州で人生を終えたでしょう。

和歌山城の天守閣と御橋廊

しかし、ここで大転換が起こります。

宝永2年(1705年)、3代紀州藩主の徳川綱教(つなのり)が死去。

同年、その二弟である徳川頼職(よりもと)までもが落命してしまい、5代目、五十五万石の藩主の座が若い頼方にめぐってきたのです。

頼方はこれを機に、綱吉から一字を取った「吉宗」と改めました。

そして気の置けない間柄の加納久通と有馬氏倫を側に置き、彼ら主従は藩政改革へ乗り出します。

吉宗主従の出世劇、その始まりでした。

 

「御用人」を廃止し「御用取次」へ

徳川将軍は、初代家康は男児に恵まれました。

しかし二代・徳川秀忠は決してそうとは言えず、三代・徳川家光に至っては、早くも後継者問題が案じられ始めます。

徳川家光/wikipediaより引用

そして享保元年(1716年)、七代・家継がわずか8歳で夭折してしまうと、紆余曲折をへて、八代将軍の座は御三家藩主である吉宗にめぐってきました。

吉宗は加納久通と有馬氏倫を引き連れ、幕政の中心へ。

長年の付き合いがあり吉宗の人柄を熟知し、紀州藩の藩政改革にも関わってきたこの二人は、【享保の改革】はじめ、さまざまな課題に挑む吉宗を支え続けます。

まず吉宗は、幕閣に乗り込むにあたり、政治体制の変革に着手しました。

というのも、五代将軍の綱吉以降、六代・家宣、七代・家継まで、幕政は御用人が権力を握っていたのです。

御用人とは将軍と老中を結ぶ役職であり、綱吉時代の牧野成貞や柳沢吉保が有名ですね。

吉宗が将軍職についた時は、間部詮房と新井白石という御用人がいました。

新井白石/wikipediaより引用

家宣と家継時代の【正徳の治】に貢献した、非常に優秀な人物たちです。

とはいえ長年勤めていると、どれだけ優秀な人物だって空気は澱む。間部も新井も勤勉で真面目ではありますが、どうしたって隙や綻びは生じてしまいます。

例えば間部詮房は、家継の生母である月光院と距離が近いと囁かれ、まだ若い未亡人の彼女と酒宴を楽しんでいるといったゴシップが流れました。

間部詮房の木像(浄念寺所蔵)/wikipediaより引用

庭で開くその宴に幼い家継まで同席させたから風邪を引き、幼くして亡くなったのだとまで噂は広がります。

吉宗はそんな反発を受け、この二人を罷免。

代わりに老中と譜代を尊重する政治を始めます。

そして自らの手足として、紀州藩由来の側近を用いることにしたのです。

加納久通と有馬氏倫の両者は「御用取次」に任命されました。

将軍と老中、奉行をとりつぐものであり、「御用人」とどう違うのか? と問われたら、実は大差などない、いわば秘書業務です。

吉宗は側近政治を廃止したようで、その実、続けたとも言えます。

 


温厚な加納久通と苛烈な有馬氏倫

将軍へ意見を通すには、取次を越えなければならない。

かくして「御用取次」の二人が首を縦に降らねば、将軍に取り次いでもらうことすらできない状態となりました。

結果、周囲は次第に二人の顔色をうかがうようにもなります。

そんな様子を当時の儒学者である室鳩巣(むろ きゅうそう)は、こう書き残しました。

室鳩巣/wikipediaより引用

両人の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老中などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候

【意訳】二人の勢いはますます盛んで、将軍の側でコントロールしている。老中は誰でも彼らの顔色をうかがっているとありありとわかる

先程も申し上げましたように、加納と有馬の性格は対照的です。

有馬氏倫は清廉潔白ながらも苛烈で「人喰犬」とすら囁かれました。

一方で加納久通は温厚で謙虚であり、互いを補い合う関係のもと、吉宗を支えて【享保の改革】を推し進めたのです。

二人とも順調に出世を遂げ、生涯、役についたまま、有馬氏倫は享保20年(1735年)に68歳で死去。

加納久通は寛延元年(1748年)、76歳でなくなると、今度はその3年後、吉宗が寛延4年(1751年)、66歳で死去しました。

君臣ともに天寿を全うしたと言えるでしょう。

 

吉宗は好色将軍なのか?

秘書役だった加納久通と有馬氏倫の二人。

吉宗と距離が近すぎるためか、彼ら自身の政治的な信条や特性はわかりにくいものです。

そのためフィクションでは、吉宗の側近として比較的自由なキャラクターづけをされます。

NHKで放映されるドラマ『大奥』となると、吉宗の性への接し方は避けて通れない話といえます。

同作品での徳川家光や徳川家綱は、恋に悩む姿が描かれる。

しかし、吉宗はそうでもありません。

肝が据わっていて男性関係は奔放で実用的。美男には手をつけず、偏った相手を寵愛しないようにします。

これには史実の裏付けもあります。

吉宗は、しばしば好色な将軍と見られたりしますが、これは彼特有の事情から誇張されたことは否めません。

例えば吉宗の御落胤伝説による【天一坊事件】があります。

「御落胤」とは、高貴な身分の人物が隠し子を儲けたことを指し、享保13年(1728年)夏、吉宗の御落胤を自称する天一坊が浪人を集めたのです。

天一坊は逮捕されて斬首。

この事件は、実際には関与していない大岡忠相が裁いたこととされ、講談や歌舞伎『天一坊大岡政談』として人気を集めました。

そうなると、世間はこう思います。

「火のねえところに煙は立たねぇ……きっと将軍は好色だったにちげぇねぇ!」

こうして誇張され、ゴシップとして定着していった。

確かに吉宗には、多数の側室がいました。

紀州藩主となる前の若い頃は、気楽な日々を送っています。

文武の鍛錬は欠かさぬものの、野山を駆け回る時間と余裕があり、そうした自由時間に美女とのロマンスがあってもおかしくない。

そんな発想から御落胤伝説が生じやすかったのですね。

これが生まれながらの将軍であれば、自由はなく、そんな噂が立ちようがありません。

ドラマの加納久通は、そんな吉宗をどう支えたか?

『暴れん坊将軍』では三人だった吉宗の側近ですが、NHKドラマ『大奥』では一人が担い、しかも吉宗の与り知らぬところで非情なまでの重責を背負っていました。

大望のために生きた主従――今でも二人の姿が、強烈に心の中に残っています。


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【参考文献】
辻達也『徳川吉宗』(→amazon
『徳川吉宗のすべて』(→amazon
中江克己『徳川吉宗101の謎』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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