古代から中世へ社会が発展していく時期であり、それまで腕っぷしが大きな比重を占めていた武士の価値観にも変化が訪れつつありました。
知識や冷静さなど、頭脳を評価される者たちが出現し始めたのです。
その代表例が三浦義村でしょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で山本耕史さんが演じた役で、良く言えば「抜け目のない優等生」で、悪く言えばとにかく「冷酷」という印象。
殺し合いが多発していた鎌倉政権の草創期を生き残るのですから、単にアタマの良さだけではなくタフネスさも持ち合わせた一面も見せます。
いったい三浦義村とはどんな人物だったのか?
1239年12月31日(旧暦:延応元年12月5日)に亡くなった、その生涯を振り返ってみましょう。
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義澄の嫡男・三浦義村
生年は判明しておらず、『鎌倉殿の13人』序盤の世界観でいうと若手の武士ですね。
父の三浦義澄は佐藤B作さんが演じていました。
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義村の母は、伊東祐親の娘だといわれています。
伊東祐親の娘は、他にも源頼朝・最初の妻とされている八重姫や、北条時政・最初の妻もいます。
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当時の伊東氏は、さほどに強力な存在だったんですね。
祐親本人が【富士川の戦い】の後に自害していて、権力や情勢の変化がうかがえるでしょう。
義村の幼少期については、この時代の人物によくあることで、あまり記録がありません。
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義時とは同年代
三浦義村が初めて『吾妻鏡』に登場するのは、寿永元年(1182年)8月11日のこと。
産気づいた北条政子の安産祈願のため、安房の天津神明宮(鴨川市)へ奉幣使(神社への捧げものを届ける使者)を務めた……というものです。
この日までに元服していたことは間違いないと思われますので、義村の生年はおそらく1160年代でしょう。
ドラマの主人公・北条義時は長寛元年(1163年)生まれですから、さほど年齢差のない同世代だったと思われます。
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源平合戦こと【治承・寿永の乱】においては、父・義澄に従い、源氏サイドで各地を参戦しました。
文治五年(1189年)の奥州藤原氏討伐にも参加しています。
ただし、当時はまだ若年だったためか、個人的な武勇についてはあまり記録がありません。
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唯一「若気の至り」のようなものが感じられるエピソードとして、文治五年(1189)8月9日にこんな話があります。
このとき義村は、翌10日に厚樫山を越えて敵へ攻めかかる予定になっていました。
先陣は畠山重忠が指名されており、おそらく周囲も納得していたでしょう。
しかし、義村や葛西清重など七名の武士が、深夜のうちに畠山軍を追い越して、抜け駆けをしようと試みました。
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重忠の部下がそれに気づき、抜け駆けを阻止しようとしたのですが、重忠は取り合わずに見逃したそうです。
一方、お目こぼしをもらった形になった義村たちは、無事(?)抜け駆けに成功。
厚樫山の奥州藤原軍のうち、数名を討ち取ったそうです。
ただし「義村が誰それの首を取りました」とは書かれていないので、七名の武士の監督役だったか、あるいは機会に恵まれなかったか……。
頼朝から特にお咎めはなかったようで、重忠が何かしらの口添えをしたかもしれませんね。
父から右兵衛尉を譲り受け
この時期の義村は、武士としての働きに専念していたらしく、政治や行政といった場面ではほぼ登場しません。
戦から離れた場面では、以下のような経歴が残されています。
文治元年(1185年)10月 頼朝の勝長寿院供養に従う
文治二年(1186年)11月 幼い源頼家に従って鶴岡八幡宮に詣でる
文治三年(1187年)8月 同じく鶴岡八幡宮の放生会で、流鏑馬に参加
建久三年(1192年)8月 実朝誕生前後の儀式の準備
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こういった儀式的な場面で、義村の名がみられます。
時系列が前後しますが、建久元年(1190年)に頼朝が上洛したときは、父の功績を譲り受ける形で右兵衛尉の官職を受けました。
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この叙任は、後白河法皇の意向で
という話が出たため、頼朝が指名して行われたものです。
義村の他にも、祖父や父から官位を譲られた人はいました。
これも、鎌倉政権の世代交代を連想させるポイントですね。
日常的な場面では、建久二年(1191年)閏12月7日の「頼朝が義澄の屋敷へ遊びに行った」際に登場します。
このとき、いとこ(義連の子)である佐原景連などとともに、相撲をとるよう命じられています。
賞品や勝敗の記述はありませんが、どうだったか気になりますね。ささいな場面ではありますが、「13人」でこのシーンが描かれるか楽しみです。
このあたりまでの義村は、おそらく名実ともに「義澄の倅」という状況だったのではないかと思われます。
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