大きなキッカケとなったのが【富士川の戦い】での敗戦でしょう。
水鳥の羽ばたく音に慌てふためき、自ら崩壊していったとされる平家ですが、このとき軍を率いていたのが平維盛(これもり)。
「光源氏の再来」とも称される平家の将で、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では濱正悟さん、アニメ『平家物語』では入野自由さんが演じられ、確かに高貴なオーラをまとっています。
しかし、ある意味、平家敗北の“戦犯“とも言えるわけで、富士川の戦いに敗れた平維盛はどうなったのか?
そもそも、なぜ選ばれたのか?
寿永3年(1184年)3月28日は維盛の命日。
本稿で、生涯を振り返ってみましょう。
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平維盛は「光源氏の再来」
平維盛は平治元年(1159年)、父・平重盛のもとに生まれました。
重盛は、あの平清盛の嫡男。
つまり順当なら維盛は平清盛の嫡孫となりますが、母は出自が不明であり、庶長子(正室の生まれではない長男)であったとも考えられます。
実際、維盛の誕生2年後には、藤原家の母を持つ異母弟・平資盛(すけもり)が誕生しました。
これで後継争いではすっかり不利に……と思いきや、資盛は嘉応2年(1170年)に【殿下乗合事件】を引き起こしてしまいます。
車同士のすれちがいで揉め、暴力沙汰となったこの事件。
資盛が恥をかかされ、父親の重盛(あるいは清盛)が後で仕返し――という、なんとも締まらない内容で「平家悪行の始まり」と京の人々を嘆かせています。
そうした素行や資質を考慮して、嫡子は維盛とされたのでしょう。
安元2年(1176年)3月4日のことです。
後白河法皇が五十歳を迎えるとき、桜と梅の枝を烏帽子に挿した維盛は「青海波」を舞いました。
その姿があまりに美しく、当時の日記に「まるで光源氏のようだ」と讃えられた維盛。
『源氏物語』第七帖「紅葉賀」では、光源氏と頭中将が「青海波」を舞う場面がありますが、おそらくそのシーンを連想させたのでしょう。
東洋における美しさとは、雰囲気や所作も含まれていて、現代人からすれば見た目の具体的な描写は少なく、想像がつきにくいものですが、ともかく優美だった。
そんな貴公子の美貌を曇らせる出来事が、わずか数年後に起こります。
治承3年(1179年)に父の平重盛が苦悩の末、病死したのです。
享年42。
気になる清盛の後継者は、叔父の平宗盛とされました。
以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧
生前の平重盛は、父・清盛と後白河法皇の間をとりもつべく、苦労を重ねてきました。
父子は一致団結するどころか、同床異夢ともいえる状態であり、有力者と姻戚関係を結ぶこともできず、不安定な状態。
重盛の遺児である平維盛たちは、清盛や宗盛から厚遇されることもありません。
官位昇進を見ても、宗盛系と比較して重盛系が押しのけられた跡がみてとれます。
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維盛の人生に影が差し始める……というか、この後、10年も経たないうちに平家の天下そのものが儚く潰えてしまいます。
始まりは治承4年(1180年)。
後白河法皇の皇子である以仁王が挙兵をします。
このとき討伐軍の大将軍に任じられたのが平維盛であり、叔父の平重衡らと共に宇治へ向かうと、足並み揃わぬ以仁王や源頼政らを鎮圧します。
若い平家の貴公子である維盛や重衡らには、伊東忠清という家人が付けられ、目を光らせていました。
忠清の役目は若者の勇み足をとどめること。しかし、この忠清の慎重さが仇となってしまいます。
同じく治承4年(1180年)8月のことです。
伊豆にいる源義朝の遺児・源頼朝が兵を挙げると、事態を楽観視していた平家は、現地の平家方・大庭景親らに頼朝討伐を任せました。
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地元の有力者である大庭軍は【石橋山の戦い】で頼朝軍を撃破。
ところが負けてもしぶとい頼朝は、安房に渡ると多くの味方を得ていきます。
同年9月5日――平家は追討軍派遣を決めました。
このとき総大将に任じられたのが平維盛だったのですが、いざい出立しようとすると、日にちが悪いと伊東忠清が主張し、月末まで延びてしまう。
維盛は美しく、絵にも描けぬほどだと語り残されていますが、前途は多難です。
天候不順による飢饉のため民は飢えていて「この飢饉も平氏のせいではないか?」と不満が横溢していて、味方につく者が次々に減ってゆく。
いくら天変地異だと説明したところで、平家が後白河法皇を冷遇し、遷都を強行し、この世の栄華を楽しんできたことを人々は知っており、源氏につくものが膨れあがっていくのです。
それでも維盛たちは、なんとかして駿河まで辿り着きました。
目前に迫る敵は、武田信義でした。
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