義円

歌川国貞による常盤御前と子供たち/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義円(義経の同母兄)が墨俣川の戦いで呆気なく討死してしまった理由を考察

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で物語を牽引していた源氏。

話が進むにつれ、源頼朝の兄弟が続々と集結できたのは、父である源義朝に側室が多く、子だくさんだったからこその話です。

ざっと男児のリストを見てみますと

・源義平
・源朝長
・源頼朝
・源義門
・源希義
・源範頼
・阿野全成
義円
・源義経

実に9人もの兄弟がいることがわかり、彼らの母も複数名いて、そんな側室の中でも身分が低いのが雑仕女(ぞうしめ)に過ぎなかった常盤御前でした。

注目は彼女の子で、上からこうなります。

阿野全成(今若)

義円(乙若)

源義経(牛若)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では阿野全成を新納慎也さん、源義経を菅田将暉さんが演じていましたね。

本記事では、成河(ソンハ)さんが演じた「義円」に注目。

治承5年(1181年)3月10日が命日となる、その生涯を振り返ってみましょう。

なお、義円たちの母・常盤御前がその美貌ゆえ、夫・義朝の死後、泣く泣く清盛の妾になったという伝説は有名です。

我が子助命のため屈辱を受け入れたとされてきましたが、どこまで史実かハッキリとしていません。

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何が兄弟を分けたのか?

常盤御前と義朝の息子(全成・義円・義経)は、知名度や命運が大きく分かれています。

義経は、説明するまでもないほどのスーパースター。

圧倒的な才能や美貌ゆえ……と言いたいところですが、やはり後世の創作イメージが大きい。

兄二人が出家しているのに対し、奥州藤原氏に預けられた義経は、物語としても非常に面白い存在でした。

奥州の藤原秀衡は財力があります。

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当時、隣の中国大陸では北宋が滅亡し、南宋と金(国家としての金王朝)が並び立つ状況となっていて、南宋では金属が不足してした。

そのため日本から算出される金(鉱物としての金)や、よく切れる刀剣が喉から手が出るほど欲しい。

そこで奥州の金山を有する藤原氏が勢力を増したのです。

宋の後にできた元の時代、マルコ・ポーロが「ジパング(日本)は黄金の国である」と伝えたのにも、そんな背景があったのでしょう。

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藤原秀衡は政治センスもありました。

朝廷とも繋がりがあり、義経を預かる余裕があった。

黄瀬川で頼朝と対面する義経の姿は、名場面として描かれますが、単に兄弟の再会だけでなく、兄・頼朝の目からすれば奥州藤原氏の力も期待できたのです。

では、後ろ盾のない義円はどうすればよかったのか?

 


功を焦っていた義円と行家

治承4年(1180年)11月9日の【富士川の戦い】で醜態を晒し、大敗北を喫した平家(平維盛)。

その後、平清盛は高熱にうかされて亡くなり、大変な危機に晒されます。

では、ここから一挙に源氏が勝ったのか?というと、そう単純な話でもありません。

確かに勢いを得た源氏は動意づき、その一人に、義円にとっては叔父にあたる源行家がいました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では杉本哲太さんが演じている武士であり、以仁王の令旨を頼朝に届けた際には、胡散臭いと怪しまれていましたね。

あの怪しさから来る頼朝との距離感――実は、史実を反映しているとも言えます。

行家は、以仁王の挙兵には応じたにもかかわらず、その後の頼朝たちの流れには乗ることができず、三河・尾張で勢力を築いていたのです。

そんな叔父と、他の兄弟よりも合流が遅れて、焦っていた甥の義円。

彼らは当時、最も浮き足だっていたコンビともいえます。

そんな二人が戦いに出向いたらどうなるか?

源行家と義円は、意気揚々と平家との戦いに出向き、墨俣川で平重衡と平維盛とぶつかりました。

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