大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で木曽義仲が壮絶な死を迎えるだけでなく、それに負けず劣らず辛い最期となったのがその息子。
市川染五郎さん演じていた木曽義高であり、初登場のときから、彼の立ち振舞や佇まいがあまりに「美しい」として視聴者を驚かせました。
父がワイルドな武人であるのに対し、息子が儚い美少年とは一体なんなんだ――。
そして、あの悲惨な死に方は何なんだ?
許嫁だった頼朝の娘・大姫だけでなく、北条政子をも大いに嘆かせた、木曽義高の命日は元暦元年(1184年)4月26日のこと。
本稿で、史実の人物像を振り返ってみましょう。
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清水冠者こと木曽義高
木曽義仲の長男である木曽義高。
その生まれは承安3年(1173年)とされ、母は中原兼遠の娘と推察されています。
兼遠は、家族ぐるみで義仲に仕えていて、その中には女武者として著名な巴御前もいました。
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他に二人の息子も義仲&義高親子に仕えており、彼らを支えた中原家をまとめるとこうなります。
上記の人間関係には諸説ありますが、間違いでなければ義高は彼らにとって孫や甥に当たるんですね。
名前は「義高」が最も有名であり、ドラマでも採用されていました。
ただし「義基」や「義重」「義隆」といった諱も伝えられ、ハッキリとしません。
頼朝長女のフィアンセに
治承4年(1180年)9月、父の木曽義仲が挙兵し、木曽から旅立ちました。
目指すは京都――戦いは連戦連勝と破竹の勢いであり、こうなるともはや敵は平家というより、同じ河内源氏の源頼朝がライバルとして浮上してきます。
彼らは従兄弟同士なれど、浅からぬ因縁がありました。
義仲の父である源義賢が、頼朝の兄である源義平に討ち取られていたのです。
源氏の身内争いはお家芸みたいなものですが、ともかく源頼朝は、木曽義仲にとって父、木曽義高にとって祖父の仇になる存在。
そんな先代たちの確執を繰り返さないようにするため、両者は和解の道を探ります。
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それが婚姻でした。
頼朝の娘・大姫と、義仲の子・義高が結ばせる。両家にとっては友好関係の楔となる。
かくして11歳の義高は鎌倉へ向かい、鎌倉に着くと、大姫の母である北条政子にも気に入られ、穏やかな日々を送りました。
しかしそれからわずか4年後の寿永3年(1184年)1月、事態が一変します。
義仲が討死するのです。
結局、頼朝との確執が解消されていなかった義仲は、源義経と源範頼の軍と対峙し、これに敗れたのでした。
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