大岡忠光

大岡忠光像(龍門寺蔵)/wikipediaより引用

江戸時代

大岡忠光は9代将軍・家重の言葉を聞き取れた稀有な忠臣~庶民からも慕われていた

NHKドラマ10『大奥』で岡本玲さんが演じていた大岡忠光(ただみつ)。

劇中では、言葉が不明瞭な9代将軍・徳川家重を支える小姓頭であり、その働きぶりや落ち着いた立ち振舞からして、非常に頭の良さそうな印象を受けた方も少なくないでしょう。

史実においてもまた同様(ただし男女逆転版ドラマとは違って男性)。

忠光は、家重最大の理解者であったとされ、誠実な人柄は江戸っ子たちにも愛されました。

こうなると、まさしく理想的な忠臣と言えそうですが、果たして史実の大岡忠光はどんな人物だったのか?

宝暦10年(1760年)4月26日はその命日。

本記事で大岡忠光の生涯を振り返ってみましょう。

 


大岡忠相とは譜代旗本同族の遠縁

大岡忠光という名前を見ると、皆さんの頭にこんな疑問が湧き上がってくるかもしれません。

同じくNHKドラマ10『大奥』でMEGUMIさんが演じていた大岡忠相とは、どんな関係なんだろうか。

名前が似通っていることだし、もしかしたら親子か兄弟か、あるいは縁の近い親戚?

答えから申しますと、同族ながら、かなりの遠縁となります。

そもそも大岡家は、旗本・大岡忠吉を先祖とする一族。

徳川家康が「大岡は三州において代々武功忠実の者なり」と伊達政宗に語るほどであり、三河時代以来の譜代の旗本でした。

徳川幕府下においては名門と言っても良い出自でしょう。

しかし忠相のころには、一族で八丈島へ流罪となる者や、刃傷沙汰を起こす者がおり、家名に傷がついた状態でした。そうした不祥事のため、忠相ですら出世が遅れたと思われるほどです。

忠光もそんな大岡一族の出身であり、前述の通り、忠相とはかなりの遠縁。

引き立てられたのも、忠相の活躍あってのことではなく、彼個人の個性と働きによるものでした。

ただし、忠光と忠相の間には個人的な親交があり、人格的に優れた二人の交流は、双方にとって良い刺激となったでしょう。

 


嫡男・家重は後継者として問題があった

ドラマ10『大奥』で徳川家重役にキャスティングされた三浦透子さん。

ドラマ化に際しては、誰が演じるのか、注目された難役でした。

史実の徳川吉宗には6人の子がいましたが、そのうち半数にあたる3人が夭折。

正室は女児を流産し亡くなっており、そうなると年齢順に嫡子が決まります。

その嫡子が家重であり、この役が非常に難しい。

というのも家重は、何をするにも覇気に乏しく、草花を愛でることくらいにしか興味を示さず、成長するにつれ酒色に溺れていました。

しかもドラマ10『大奥』では、吉宗との面会中に尿を漏らしてしまうという粗相もしてしまいますが、史実の家重にも排尿障害があったとされるのです。

徳川家の菩提寺・上野寛永寺まで、4キロにわたる道中に23ヶ所も廁(トイレ)を作らせたことから、「小便公方」という不名誉なあだ名まで付けられるほど。

駕籠の中でも袴に差し入れれば、排尿はできます。

にもかかわらず厠を作らねばならなかったあたりに、家重の置かれた厳しい状態がわかります。

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こうなると、とても将軍の器ではない。

ゆえに四歳下の二男・宗武や、十歳下の三男・宗尹の方が器量では上ではないか?と当時から思われていたのですが、吉宗には、家重を廃嫡できない理由がありました。

後継者候補たちの器量を加味して将軍家が長幼の序を乱してしまったら、大名家はじめ日本中の家督相続が乱れかねない。

太平の世を保つためにはルールの遵守がとにかく重要。

だからこそ「より優秀だから」と弟を抜擢することはできず、その方針に背いて宗武の擁立を目論んだ松平乗邑(のりさと)は、当人は優れた手腕の持ち主ながら、家重によって失脚させられました。

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徳川家康は、儒学者の林羅山を重用し、朱子学を重んじています。

それまでは禅僧や漢学を学ぶ者が教養として身につけていた朱子学を、国家形成のために学ぶよう定めたのです。

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その後、徳川綱吉は【文治政治】を行い、儒教倫理をさらに日本に浸透。

吉宗本人は実学好みであったとされ、綱吉のようなインテリ肌とはやや異なる印象ですが、政治理念、統治の道具として、儒教を民衆にまで浸透させることを重んじていました。

「孝子長五郎」に代表される親孝行なものを顕彰し、一方で親不孝者は厳罰に処しています。

儒教倫理を徹底して民草まで叩きこむのに、将軍家がそれを破ってはならない――。

そんな思想から嫡子とされた家重には、現代人の考える親子愛とは異なる事情があったんですね。

いささか脱線が長くなってしまいました。忠光の話に戻りましょう。

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