戦国時代の男色

徳川家康と織田信長/wikipediaより引用

文化・芸術

はたして戦国時代の男色は当たり前だったのか?信玄や義隆たちの事例も振り返る

なぜこの年は戦国時代の“男色”がやたらとクローズアップされたのか――。

そんな印象が大きいのが2023年のことです。

大河ドラマ『どうする家康』では織田信長徳川家康

人質だった家康に対して、信長が「俺の白兎~」と薄気味悪く囁いたかと思ったら、怯えがちな家康の耳たぶをハムッ!と噛んだりして、何がなんだかわけがわからない。

本能寺の変】や三成との出会いまでボーイズラブ路線とされ、各メディアでも関連記事が出ていました。

◆『どうする家康』信長「家康…家康!」名前連呼の壮絶ラスト 「すれ違いBL」「お互いへの愛がスゴすぎる」の声(→link

◆ 『どうする家康』“家康”松本潤&“三成”中村七之助、星空の下での初対面に反響「脚本、鬼すぎる!」(→link

そうかと思えば、同年11月に公開された北野武監督映画『首』でも、男色によるもつれを悪用した展開となります。

もっともこちらはボーイズラブというよりも、『シグルイ』『衛府の七忍』で知られる山口貴由若先生路線ですね。

ともかく、こうした作品を見ていると、日本の戦国時代は男色で歴史が動いたのか?と混乱してくるほど。

そこで本稿でも考えてみたい。

戦国時代の男色には実際どんな特徴があり、具体的には、誰と誰がそんな関係にあったのか?

さっそく見て参りましょう。

 


東アジアにおける宗教的束縛は?

日本は伝統的に同性愛に寛容である――。

このような見解をしばしば見かけますが、実際はどうなのか。

同性愛の受け止め方には宗教の規範が大きく影響していて、例えばキリスト教では男色が厳禁であり(詳細は後述)、日本では主に以下の通りとなっています。

・神道

特に禁じていません。

・仏教

性行為そのものを禁じるというより、女性性そのものへの禁忌があります。

仏陀が母親の腋の下から生まれた伝説はその象徴でしょう。

聖母マリアは処女懐胎であり、性行為そのものを忌まわしいものとする一方、仏教は女性の生殖器を忌まわしいものとしました。

そうした影響からか、東アジアの仏教では男色が認められました。

儒教が深まるのが日本では比較的遅く、藩校や寺子屋が広まった江戸時代の中期以降に庶民まで浸透します。

渋沢栄一の妻・兼子の言葉から「儒教には性的な規範がない」という見方もありますが、それは誤解。

儒教では子孫を残すことを重視していて、男色は、その考え方に反するため推奨されません。

確かに中国では、儒教思想へ対抗するように、友情の延長や交歓として男色が賛美されることもありました。

そして男子を重視する儒教では、女児の間引きが必要悪として広く行われ、男女比が偏り、男色を促すという皮肉な結果が生じたとされます。

日本では江戸時代中期に、儒教朱子学が広く浸透して、都市部でも男女比の偏りが少なくなると、トラブル回避のため男色を禁じる藩もでてきました。

地域によって男色の浸透度が変化してくのです。

薩摩のように色濃く残った地域もあったため、明治維新後の江戸っ子は嘆きました。薩摩連中が男色などと気持ち悪いものを持ち込んだと。

これはなかなか重要な指摘でしょう。

日本の男色は、明治以降、西洋諸国の目を意識してタブーとされたとされます。しかし、近代へ向かう中で低調になる流れもあったのです。

お隣の中国では、仏僧と小坊主の男色行為がジョーク混じりで語られることもありました。

男色を「梅を望んで渇きを止む」と呼ぶこともあります。『世説新語』に由来する言葉で、梅のことを想像して唾を飲み込み、我慢するという意味です。

女性が得られないから、とりあえず男性で我慢しておこう――そんな意味ですね。

要するに、中国での男色とは【女性を得られないための代替】という見方が一般的だった。

キリスト教圏やイスラム教圏よりはゆるいけれども、日本ほどでもない。

それが東アジア諸国の男色事情でした。

 


日本の中世は男色こそが性愛最大手

中世日本は、ともかく自由でルーズ。

むしろ美少年と愛し合うことこそ、至高の体験だという認識がありました。

今でも神社に行くと、絵馬がかかっていますね。

合格祈願や家内安全など、様々な願いが記される中でやはり多いのが、あの人と結ばれますように、良縁に恵まれますように、といった恋愛関係のものです。

こうした願文の類をみれば、人々の願いがわかるというもので、中世日本の場合、

「美少年と愛し合えますように!」

「あのかわいい男の子を手に入れたい!」

といった男性からの願いが多い。ともかく美少年を求めていました。

 


「男色禁止ってマジ?」と笑われる宣教師

そんな、男色に対する規制が特にない日本に、カトリックの宣教師が来たら、どうなるか?

宣教師が来日するにも、それぞれの事情があります。

まずは宗教改革。プロテスタントに対抗するには、ブルーオーシャンの開拓が必要であり、東アジアへ目を向けました。

当時、圧倒的に人口の多かった明(中国)では、厳しい海禁政策が実施されていました。その苦労を乗り越えたマテオ・リッチはだから偉大といえるでしょう。

一方、ザビエルのように隣国・日本を目指す宣教師もいました。

彼らは理知的だし、きっとできる!

ザビエルは浮かれてそんな記録を残しましたが、やがてそれは失望に変わりました。

日本人は宣教師を取り囲み、「バカな妄想を吹き込む」と笑いものにしているのです。

一体なにがそんなにおかしかったのか?

「あんたらのわけわかんない神を拝めって言ってるんだな?」

「お、あんたかい? 妻は一人だけにすべきだって熱く主張してる奴ってさ?」

「男色禁じているってマジ? できるわけねえだろ、ウケるwww」

おお神よ、彼らはそもそも何が罪かわかっていません……そう嘆くしかない、宣教師にとっては絶望的な状況がそこにはありました。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-文化・芸術
-

×