戦国時代の甲斐武田家において隻眼の軍師として知られ、2007年の大河ドラマ『風林火山』では主役までつとめた山本勘助。
実は長いこと「実在の人物ではない」とされてきました。
史料から「これぞ」という確認ができないだけでなく、『甲陽軍鑑』で描かれる活躍があまりに出来すぎていて、創作と考えられていたのです。
しかし他ならぬ大河ドラマや歴史作品によって、その実像も少しずつ解明されてきています。
いったい山本勘助とはどんな人物だったのか?
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そもそも軍師・山本勘助は実在したのか?
大河ドラマの主人公にもなりながら、実在すら疑われた山本勘助。
キャッチコピーである“武田信玄の軍師”という言葉からして曖昧です。
「軍師」とは結局のところ何をするのか?
確固たる役職や条件があるわけでもなく……
・賢い
・主君の側にいる
・どちらかといえば力自慢ではない
といったイメージが先行するでしょう。
そうしたフィクションの影響から逃れられない、その代表格が『三国志』の諸葛亮です。
甲冑は身につけておらず、武器も手にせず、羽扇を手にしている。馬にまたがることもなく車に乗っている。武官ではなく文官であり戦術にはめっぽう強い。
中国の場合は、こうした「文官」のイメージが強くなりますね。
これが日本となると事情が変わってきます。
武士が政治の中心にもなった鎌倉時代、文官である「文士」は武士に吸収融合され、ハッキリとは区分されなくなった。
戦国時代の「軍師」をあえて挙げるなら、仏僧で戦場に立った太原雪斎がイメージに近いでしょうか。
もともと日本の仏僧は武装することもあり、武の要素も強かったものです。
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軍師ではなく「軍配者(ぐんばいしゃ)であろう」という解釈もできますが、それにしてもイメージが先行して、その後のフィクションで色んな要素が肉付けされたため、実態はよくわからなくなっています。
しかも、あの武田信玄の配下となれば、物語として創作もされるだろう……ということで、山本勘助も「想像の産物ではないか?」とされてきました。
実在はしたらしい でも何者なのか?
実在を疑われ続けた山本勘助も、昭和の後期になると、新たな史料が発見され「やはり実在の人物であろう」と認識されるようになります。
それは山本勘助なのか? あるいは山本管助なのか?
名前の確定も難しい最中、おおよそ以下のような人物像で認識されました。
・三河出身
・諱は晴幸→武田家臣の諱に「晴」の字は使用しないので、これは後世の創作
・隻眼で足が悪い→『甲陽軍鑑』によれば片目が悪く、手足のどこかが不自由であるが、ハッキリとはわからない
・武田信玄の軍師として活躍→江戸時代以降のキャラクター付の結果であり、軍配者=軍師とは言い切れない
『甲陽軍鑑』については「史料としてそのまま扱ってよいのか?」という論争もあり、ますます山本勘助という人物がわからなくなってきました。
少なくとも、歴史祭り、フィクション、ゲームに出てくる「隻眼に黒づくめの軍師」ではなかろう。
やはり架空の人物か……と処理されそうなとき、大河ドラマがここで役割を果たします。
大河の放送をキッカケに史料が見直され、人物像に変化が起きることがある――。
例えば、2013年大河ドラマ『八重の桜』では、ヒロイン八重の最初の夫・川崎尚之助もそうです。
彼は長いこと妻を捨てた卑怯者として認識されていましたが、それが史料の発見と解明により、誠意あふれた人物であったことがわかりました。
ドラマにはその実像が反映され、長谷川博己さんが名演を見せています。
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この先例が1969年の大河ドラマ『天と地と』の山本勘助でした。
ドラマ放映中、釧路市で発見された「市河家文書(市川文書・信濃国地頭・市河氏が残した文書)」により
“山本管助”
という家臣が武田家に存在したことが確認されたのです。
“ヤマモトカンスケ”は実在した――と喜びたくなるかもしれまんせが、問題はあります。
果たして山本勘助と山本管助は同一人物なのか?
仮にそうだとしても『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助は話が盛られているのでは?
そんな懸念は依然として拭えない状況ですが、それを前提に踏まえ、あらためて『甲陽軍鑑』を参考にしながら、山本勘助の生涯について振り返ってみましょう。
三河生まれの醜い牢人
山本勘助の前半生は謎に包まれています。
出身は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)。
生年は確定できず、明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年)とされます。
前半生は各地を放浪して、兵法を身につけたとされますが、この「兵法」も曖昧で、鬼一法眼の秘伝書を習得したという伝説があるのですが……。
鬼一法眼とは、源義経に『六韜』と『三略』を教えたという伝説の持ち主です。何やらおどろおどろしい妖術のようなイメージを持たれるかもしれませんが、古典的な兵法書です。
そうかと思えば、山本勘助には「剣術を習った」という伝説もあります。さらには築城術に加えて、外科手術まで学んだなんて話まで。
色々と盛られ過ぎていて、よくわからないことになっているんですね。
勘助は、今川家臣・庵原氏のもとで食客として滞在しつつ、十年ほどの修行を経て、仕官を目指します。
相手は駿河国で家督を継いだばかりの今川義元。
ここで義元に嫌われる過程が、あまりにベタと言いますか、往年のテレビドラマや少年漫画のようです。
むしろああした作品を根底に伝説があるのかもしれず、セリフの形式で今川義元の反応をまとめるとこんな感じです。
「片目で片足を引き摺っている、そんなみっともない男は要らん」
「城を持ったこともない未経験なんて雇用できませんね」
勘助は自ら立ち回る人でした。要するにテキパキとお供の手を借りず身の回りのことをこなすタイプ。
現代であれば、有能で良いではないか?となりそうですが、戦国時代は違います。
供回りを連れていて身の回りのことをやらせていないと、むしろ蔑まれる。
これは何も日本だけに限ったことではなく、重い武器甲冑の運搬や、馬の世話をする者は、貴人に侍るものでした。
勘助はあまりに身軽で、かえって軽んじられたというのです。
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