大河ドラマ『麒麟がくる』ですっかり有名になった織田信長の父と言えば?
そうです「織田信秀」ですね。
高橋克典さんの好演が今なお印象に残っている方も少なくないでしょう。

織田信秀イメージイラスト(小久ヒロ画)
では「織田秀信」はご存知でしょうか?
「秀」と「信」の位置が織田信秀とは逆という、なんだかややこしいこの御方。
織田信秀(信長の父)
織田秀信(信長の孫)
実は、織田信長の孫なんですが、世間ではもっとよく知られた名前があります。
三法師です。
そう、清州会議で中心となったあの三法師であり織田信忠の息子なんですね。

『絵本太閤記』で秀吉に担がれる三法師/wikipediaより引用
信長の嫡男が信忠で、その跡継ぎである三法師は嫡孫にあたり、元服してから「織田秀信」になりました。
◆織田家の当主変遷
織田信秀(曽祖父)
│
織田信長(祖父)
│
織田信忠(父)
│
織田秀信(三法師)
ただ……織田家の通字である「信」より先に「秀」が来ているあたりに秀吉の陰謀を感じてしまうのは気のせいでしょうか。
1605年7月13日(慶長10年5月27日)は、そんな三法師こと織田秀信の命日。
本稿で、その生涯を振り返ってみたいと思います。

織田秀信/wikipediaより引用
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三法師こと織田秀信 1580年に生まれる
三法師こと織田秀信が生まれたのは天正八年(1580年)。
本能寺の変が起きたときは数え歳でわずか3歳でした。
当然、清洲会議のときも3歳です。
物心がつくつかないどころの話ではありません。
ただしそのおかげで京都近辺には行っておらず、本能寺の変が起きたときには岐阜城にいたおかげで助かりました。

江戸時代に描かれた岐阜城/Wikipediaより引用
むろん、そのままで済むはずもありません。
織田家の継承問題から渦中の人となってしまい、清洲会議によって3歳の織田家主となってしまいました。
なお、従来の清洲会議は、織田家の信雄(信長次男)と信孝(信長三男)が家督を争っていたときに、秀吉が三法師を担いで現れ「こちらが跡取りじゃ!」という流れがフィクションの定番でした。
昨今は、三法師の跡取りは既定路線――その後見役の座を巡って織田家や重臣たちの思惑がぶつかりあったとされています。
清洲会議の詳細は以下の記事でご確認していただくとして(本記事末にもリンクあり)、
-
秀吉が清洲会議で三法師を担ぎ上げたのはウソ?実際は何を決める会議だったのか
続きを見る
いずれにせよまだ3歳の三法師では、実務などできません。
そこで当分の間は堀秀政という信長の側近を務めていた人物に預かりということとなりました。
親戚・家臣の間をたらい回し状態
幼いながらも織田家の跡取りであり、しかも信長の嫡孫でもある三法師。
不幸にも多くの親類筋や家臣たちから良い意味でも悪い意味でも一挙手一投足を見張られるような状態で、秀吉の政争相手である織田信孝(信長の三男)からは「お前、しばらく岐阜城にいろ」と圧をかけられてしまいます。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
信孝は、三法師の父・信忠の弟です。
つまり叔父さんから監視されるわけで、何ともイヤな生活ですね。
親戚をたらい回しにされる子供のようで胸が痛くなってきますが、この一件に関してはすぐに秀吉が「三法師様を出せ!!」と言って兵まで繰り出し、無事に終息しています。
もちろん秀吉とて『三法師様がかわいい』とかそんな甘い理由ではなく、あくまで政争の一環。
結局、信孝と秀吉の争いは柴田勝家を巻き込んで【賤ヶ岳の戦い】に発展し、秀吉の勝利によって勝家と信孝が自害した後は、もう一人の叔父・織田信雄(信長の次男)の後押しを得ました。
ただし、実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく「米五郎左」こと丹羽長秀のところだったりします。

丹羽長秀/wikipediaより引用
天正十六年(1588年)には岐阜城で元服したとされ、この幼児は年齢一ケタのうちに一体何度引越しをしたのか? と考えると、哀れになってきます。そして……。
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