そのモデルは『南総里見八犬伝』の著者である曲亭馬琴であり、瑣吉と同時に出てきた勝川春朗こと葛飾北斎もあまりにインパクトが強すぎて、呆気に取られてしまった方も多いでしょう。
同時にこうも思いませんでしたか?
「馬琴と北斎がなぜ同時に出てきたんだろう……」
実はこの二人、同時期同じ場所で活躍した日本史上でもトップクラスの戯作者であり絵師であるため、フィクションで描くには最高の組み合わせなのです。
だからこそ大河ドラマ以外でも活躍の場があり、今回、注目したいのがこちら。
2024年に公開され、2025年に配信の始まった映画『八犬伝』です。

映画『八犬伝』/amazonより引用
『べらぼう』の舞台では描ききれない『南総里見八犬伝』の制作過程を役所広司さん(曲亭馬琴)と内野聖陽さん(葛飾北斎)が演じたもので、大河ドラマとはまた別の魅力があり、できれば同時に見ておきたい。
今回はそのレビューをお送りいたします。
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| 基本DATA | info |
|---|---|
| タイトル | 『八犬伝』 |
| 原作 | 山田風太郎『八犬伝』 |
| 制作年 | 2024年 |
| 制作国 | 日本 |
| 舞台 | 江戸時代後期、19世紀前半、江戸 |
| 時代 | “実”パートは江戸時代後期 |
| 主な出演者 | 役所広司、内野聖陽、寺島しのぶ、黒木華 |
| 史実再現度 | 高 |
| 特徴 | 特徴 虚と実の絡み合いが生み出す独自の味わいがある |
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あらすじ
どうしてあんたみてえな石頭から、こんなてぇしたモンが生み出されんだよ――江戸の粗末な家の二階で、あの葛飾北斎が呆れたように言う。
目の前にいるのは、堅物で知られる文人、曲亭馬琴だ。
煮ても焼いても食えない頑固者で、人付き合いも断ってばかりの馬琴は、手に汗握るような大傑作『八犬伝』のプロットをこの変人絵師に語っていた。
この作品を描く最中、馬琴は何を思っていたのか。
どんな苦労を味わっていたのか。
そしてどんな奇跡があったのか?
日本史上に残る伝奇小説の誕生がスクリーンを通じて描かれる。
「虚」と「実」のパートで構成される作品
この作品は、原作から受け継がれた変わった構造があります。
「虚」という『八犬伝』を映像化した部分。
「実」という曲亭馬琴の実生活。
これが入り混じり、入れ替わり展開をしてゆきます。
VFXを駆使し、色鮮やかな「虚」。
一方で狭苦しい江戸後期の「実」。
「実」のパートでは、北斎がこうぼやきます。
「絵にならねぇな」
馬琴の妻であるお百がケチをつけているように、ジジイ二人が狭苦しい部屋で語り合っているだけといえばそうです。
しかし、この馬琴と北斎の語っているだけの場面がどういうわけか無茶苦茶面白い。
最初は不思議なこの構成が、みていくうちに絡まり合ってゆく様が、実に絶妙なのです。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
地味で、奇妙で、癖のある江戸の偉人たち
文人目線で作られた作品といえば、2024年『光る君へ』があります。
あの作品は主人公の人生経験が作品に反映されているところが見どころとされました。
本作はその逆です。
北斎が感心しているように、あんな地味で真面目で堅物であるジジイが、どうしてあんな世界を思い描けるのか。そこが重要なのです。
『八犬伝』は中国の『水滸伝』をはじめとする白話小説や古典を元にしておりますが、本作ではそこに注目していません。
むしろエンタメのフォーマットに、自分なりの信念を頑固にねじ込んでいく。その生真面目さをとことん強調しているのが、この作品になります。
なにせ、八犬士の持つ珠には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌と浮かび上がるほどですから。
馬琴と北斎という、日本史に名を残す偉人を描きつつも、彼ら自身は人間的に欠点だらけであることも、本作の特徴といえます。
史実や原作よりは薄めてあるものの、馬琴は家族や友人にするにはなかなか難しいのではないか。そうと思える人物像なのです。
妻のお百が罵倒する通り、馬琴は厳しいしつけのせいで我が子の人生を破壊しています。
今の言葉で言えば「毒親」なのです。
息子の宗伯が病弱であることは馬琴だけのせいではないですが、あんな堅物の子であれば人生は辛いだろうと思えてきます。
妻のお百は、映像化によって人間像はよく掴めるようになりました。
悪妻として悪名高いお百。しかし彼女が夫と対立しているのは、妻を無学と侮る馬琴自身に問題があるのだと、はっきりと伝わってきます。
お百は夫を憎んでいるだけではない。語り合う北斎に嫉妬しているのだと伝わってくる。
寺島しのぶさんのお百は悪妻の顔の下に、嫉妬する健気な愛らしさすら滲んでいて本当に素晴らしい。
北斎は育児放任主義だと劇中で語っています。
要するにネグレクト。原作ではさらに詳しく書かれておりますが、父や祖父としては本当に無茶苦茶です。
こんな駄目人間たちが狭苦しい部屋で話し合っているだけなのに、どうしてこんなにもあたたかく優しい気持ちになれるのか?
実に不思議な作品です。

葛飾北斎82歳のときの自画像/wikipediaより引用
「虚」パートも必須だ
「実」パートがあまりに素晴らしいため、「虚」パート不要論すら出てくるのではないか?と私も最初のころは思っておりました。
「実」パートの役所広司さんと内野聖陽さんがあまりに達者で、若手役者が多い「虚」は落ちるとも感じたものです。いっそ「虚」はアニメにするのもありかとも感じました。
しかし、その考えは変わってゆきます。むしろ八犬士は定期的に映像化していくべきだと思えてきます。
特に栗山千明さんは、山風の描く妖艶な悪女そのもの。彼女は時代劇悪女でこそ輝く魅力があると思えました。
この玉梓に祟られたいとすら思えてくる。本当に圧倒的、凄絶なまでの美貌です。
そして板垣李光人さん。彼は二度大河ドラマ出演経験があるものの、どちらの作品でもあまり魅力が活かせていないと感じたものでした。
『どうする家康』での出番は、女装して暗殺を狙う場面から始まりました。それが『南総里見八犬伝』における犬坂毛野そのままで、こんな劣化版を見せるくらいなら、いっそ彼が毛野を演じないだろうかと思っていたものです。
それが映画で実現したのです。
想像以上に美しい毛野でした。これが見たかったのだ! そう感激のあまり涙までじわじわと滲んできたものです。
他の八犬士も、犬江親兵衛の年齢がやや上だったことくらいしか違和感はありませんでした。犬江親兵衛にせよ、原典の扱いが特殊であるため、致し方ないかとは思います。
そもそも『八犬伝』をタイトルに入れておきながら、芳流閣を映像化しないことはあり得ないんですね。

月岡芳年『芳流閣両雄動』/wikipediaより引用
江戸の狭い長屋にいるジジイ二人だけでは、宣伝するには地味すぎる。
「虚」パートも、やはり必要ではないかと納得できます。
「虚」は要するに、かなり端折ったダイジェスト版『南総里見八犬伝』です。
とはいえ、そもそもが長大すぎるこの作品は映像化が困難。実は翻訳も後半部はカットされております。
名場面とプロットをなぞるこのやり方が、実は最もメディア化に適しているのではないかと思います。
『南総里見八犬伝』は有名なのに、忠実な形で再現されることがない作品なのです。それを踏まえると、この映画、実は最適解を見出せたようにも思えます。
「虚」パートを見ていくと、改めて馬琴の性格も理解できます。
ミソジニー(女性嫌悪)が強いのです。
ヒロインたちは悪女か聖女しかいない。悪党はだいたい悪い女房に唆されている。ダイジェストで見ると、あまりにワンパターンだと改めて思えてきます。
これは江戸時代だからそうなのではなく、同時代の作家でももっと魅力的なヒロインを描いた人はいます。
やはり、作品には作者の性格が反映されるものだと「虚」パートを終えた時点でわかります。
そして、この馬琴の性格を掴んでこそ、「実」パートの大団円が生きてくるのです。
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