豊臣秀吉(左)と豊臣秀長の肖像画/2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』の主役・秀長とその兄・秀吉が描かれている

豊臣秀吉(左)と豊臣秀長/wikipediaより引用

豊臣家

実は豊臣兄弟にとって超重要な長女とも(瑞竜院殿・日秀尼)一体どんな女性だった?

大河ドラマ『豊臣兄弟』で最もタフな女性と言えば?

宮澤エマさん演じる“とも”でしょう。

秀吉や秀長の姉であり、男手ない家族を支えていますが、実は、史実でも一家にとって欠かせない超重要な存在です。

なぜなら彼女は三人の男児を産み、いずれも豊臣兄弟の養子となっているのです。

しかし、その結末は、あまりにも厳しい不幸なものであり……瑞竜院殿や日秀尼という名でも知られる、ともの生涯を振り返ってみましょう。

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豊臣家にとって重要な子を出産

ともは天文元年(1532年)生まれとされます。

比較対象として挙げると織田信長や細川藤孝より2才上。

ただし秀吉がそうであるように、彼女の誕生時や若かりし頃の動向はほとんど不明です。

歴史上の女性によくあることで、動きがある程度わかるのは結婚後のことで、夫となったのが弥助という人物でした。

この弥助、後に三好吉房(常閑)として大名にまでなりますが、彼女と同様に出自は不明。

おそらく尾張中村や近隣の村人だと思われます。

ドラマの中で「馬貸しの男と結婚する」と言ってましたように、弥助の生業は馬貸し(あるいは鷹匠の下で働く綱差)とされ、もしかしたら今後の『豊臣兄弟』で二人の出世を手助けするシーンもあるかもしれませんね。

ただ、それより何より重要なのは、とも夫婦の子供たちでしょう。

永禄七年(1564年)に生誕したのが、長男の豊臣秀次。

※生誕年は他に永禄八年・十年・十一年説も

後に秀次は秀吉の養子となり、関白にまで出世しますが、豊臣秀頼の誕生後に自害事件をすることで知られます(詳細は後述)。

豊臣秀次の肖像画

豊臣秀次/wikipediaより引用

ともが秀次を産んだのは数えで33才のときですから、当時としてはかなりの高齢。

弟の秀吉が、永禄十年(1567年)までの美濃攻略で大きく出世していますので、ちょうど秀次が産まれた頃と重なりますね。

これはあくまで想像ですが、秀吉の昇格に伴い、姉の生活も大きく変わり始めたのではないでしょうか。

彼女は永禄十二年(1569年)にも小吉秀勝を産み、そしてその十年後の天正七年(1579年)に豊臣秀保を出産したとされます。

しかし、この二人の子については、いささかややこしい事情があるので少し確認しておきましょう。

まずは小吉秀勝から。

 


三人の秀勝・秀長の養子となった秀保

実は秀吉の周囲には、以下のように“三人の秀勝”がいました。

小吉秀勝→姉とも・三好吉房の実子

御次秀勝→信長の四男か五男で秀吉の養子となる

石松丸秀勝→夭折した秀吉の長男(長浜城主時代の子で実子か養子か不明)

羽柴秀勝肖像(滋賀県妙法寺所蔵)

羽柴秀勝(石松丸)※滋賀県妙法寺所蔵/wikipediaより引用

彼らの名前は全員「羽柴秀勝」となってしまいます。

ゆえに現在は、幼名と組み合わせて呼ばれることも多く、それぞれ「小吉」「御次」「石松丸」が該当しますね。

今後『豊臣兄弟』に出てくる可能性も十分ありますので、その際は「三人の秀勝だな」と、念頭に置いておけば、混乱せずに済むでしょう。

次に豊臣秀保に注目です。

こちらは後に豊臣秀長の養子となることで知られますが、天正七年(1579年)の生まれだと、ともが48歳のときの子となるため「養子ではないか?」と考えられています。

夫である三好吉房(常閑)が側室を持ち、そこから生まれた可能性が指摘されているのですね。

その上で養子縁組をして彼女が母となったのですが、悲しいことに三人の子供はいずれも長寿や天寿を全うすることはできませんでした。

 

三人の息子は弟たちの養子へ

ともの子どもたちは成長後、豊臣兄弟の養子となりました。

・豊臣秀次と小吉秀勝が秀吉の養子

・豊臣秀保は秀長の養子

豊臣兄弟の息子となれば、豊臣政権での出世は確実。

食うか食わずの生活は遠く離れ、母としては安心できたでしょう。

しかし、これが上手くいかないのです。

文禄元年(1592年)9月、小吉秀勝が文禄の役での出兵中に戦病死をすると、豊臣秀保も文禄四年(1595年)4月に病死。

秀保の葬儀では、豊臣家の親族の女性が、悲嘆に暮れるともに付き添ったといいます。

豊臣家は譜代の家臣がいない分、母や叔母などの女性たちで結束を強めたのかもしれませんね。

一方、秀吉はなぜか突き放す態度に出ます。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

「秀保の葬儀は表立つことは無用」

ともはこれに強く反対したようで、秀吉の正妻・寧々に対し「あまり内密にするのはどうかと思うので、あなたから秀吉に言ってほしい」と伝えています。

なぜ秀吉はそんなことを言い出したのか?

理由は判然としませんが「やましいことはないのだから堂々と葬儀をすべき」というともの主張が正論ですし、実際、彼女の意見は通って、秀保の葬儀は無事に執り行われました。

気になるのは葬儀後、ねねと秀吉の間で交わされたこんな会話です。

北政所の肖像画

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

「秀保の兄・秀次には庶子がいるけれど、あなたを憚って今まで言わずにいたんですよ」

「めでたいことなのになぜ隠すのか、子供はどれだけいてもいい」

秀吉は喜んでいたようで、この頃が豊臣政権の頂点だったかもしれません。

なぜならそのわずか3ヶ月後、秀吉の残虐性を示す事例としてよく取り上げられる「秀次事件」が起きてしまうのです。

 

秀次切腹

そもそも、ともの長子である豊臣秀次は、順調な出世を遂げていました。

秀吉の引き立てにより官位は進められ、最終的には内大臣から関白にまでなり、豊臣家の家督を譲られています。

その母である“とも”は「大かみ様」と呼ばれていたようです。貴人を示す「お上様」や母・妻を表す「かみさん」から来た言葉でしょうか。

現代では

大政所=なか(秀吉母)

高台院=ねね(秀吉正室)

とされますが……もともと”大政所”は貴人の妻を指す一般名詞なので、ねねも大政所と呼ばれることがあり、ややこしい……。

こうなると、秀次が家督を継いだ時点で、大政所とは誰のことか?というのがわかりづらい状況となってしまうため、「秀吉とその正室より相対的に低い身分」として、ともの呼称には「大かみ様」が用いられたのかもしれません。

大政所(なか)の肖像画

豊臣兄弟の母である大政所(なか)/wikipediaより引用

文禄四年(1595年)7月、突如として彼女に最大の不幸が舞い降ります。

豊臣秀次が突如切腹したのです。

俗に『秀次事件』と呼ばれ、未だ解明されていない点が多く、政治的には議論の余地が大きいところですが、ともにしてみれば

「弟と息子の間に問題があり、息子が自害した」

という点は変わりません。

続けざまに秀次の妻子まで処刑されていますので、嫁や孫まで一気に殺されてしまいました。

いくら戦国時代でも、ここまで過酷な処置は、当時の基準からしてもひどい話。

秀次については自ら切腹した説もありますが、妻子については間違いなく秀吉が命令していますしね。

「腹を立てた秀吉が、秀次が罪を犯して責任を取ったことにするため妻子も連座させた」

そんな見方もありますが、仮に男児は殺しても、妻たちは離縁で済ませる例も少なくありません。

特に、まだ秀次と顔も合わせていなかったお伊万(駒姫・最上義光の娘)まで処刑させたのは、狂気としか言いようがなく……。

駒姫の肖像画

駒姫像/wikipediaより引用

一方で、秀次の正室である池田恒興の娘(輝政の姉妹)若政所は助かっています。池田輝政が豊臣政権で厚遇されていたからのようですが、ひどい依怙贔屓ですね。

 


なぜ秀吉は残虐な処置を強行した?

それにしても秀吉はなぜ、そんな残虐な処置を強行したのか。

よく指摘されるのが豊臣秀頼です。

豊臣秀頼の肖像画

豊臣秀頼/wikipediaより引用

自分の目が黒いうちに後継者としておきたい――。

秀吉がそれを強く願い、秀次を冷遇したというものですが、文禄二年(1593年)生まれの拾(豊臣秀頼)はまだまだ幼く、無事に成長するかどうかわからないような状況です。

確かに、夭逝した兄の鶴松よりは健康に育っていました。

それでも「お拾が生まれて秀次が邪魔になった」というには、いささか根拠が弱いようにも思えます。

拾がもう少し育ったあたりで秀次の娘(事件当時既に数名いた)と結婚させることにして、将来、秀次から拾へ関白を譲るよう証文を作らせておくなどしておけば良かったはず。

秀次とその妻子を処分するのは、誰がどう見ても悪手でしかありません。

事件の背景には「石田三成らの讒言説」とか「淀殿が絡んだ説」などもありますが、もしかしたら「関白の座を取り戻したかった勢力の干渉」もあったかもしれませんね。

とも本人から離れすぎてしまうので、この話はここまでにしてきましょう。

三人の息子たちに死なれてしまった彼女は、その後、どう生きたのでしょうか。

 

30年の孤独

秀次事件の後、ともは嵯峨野に庵(後に善正寺)を結んで隠棲したとされています。

あるいは、出家して京都村雲の地に瑞竜寺を開き、秀次事件後は、ほとんど記録に登場しなくなります。

関ヶ原の戦いや大坂の陣についても関与せず。

ただし、慶長十六年(1611年)、京都の豪商・角倉了以の一件には心を動かされたかもしれません。

角倉了以が秀次一家の菩提を弔うため、瑞泉寺(京都市中京区)を建てたのです。

角倉了以の木像

千光寺の角倉了以木像/wikipediaより引用

瑞竜寺から瑞泉寺までは現代の道路で約4kmの距離なので、ともの耳にもこの話は入ったでしょう。

了以としては、別の工事を進めていたところ、秀次一家の亡骸の上に置かれていたはずの「秀次悪逆塚」の石碑をたまたま見つけて供養することにしたらしいので、当初から供養を考えていたわけではないようですが。

彼女にしてみれば、いくらか慰められたかもしれません。

慶長十八年(1613年)8月には、豊臣秀頼から書状と銀子200枚が送られています。

そして寛永二年(1625年)4月24日に亡くなりました。

享年94の大往生。

秀吉の近親者で一番の長命であり、家康よりも長生きしていますね。

しかし、息子たち全員に先立たれた上に、弟が作り上げた家も滅び、親しい人が誰も残っていない……となると晩年の孤独は想像を絶するものがあったでしょう。

30年間ずっと菩提を弔って過ごしていたのでしょうか。

彼女が開いた瑞竜寺は昭和三十六年(1961年)、京都村雲から滋賀県近江八幡市に移築されています。

大河ドラマ『豊臣兄弟』ゆかりの地を訪れる際には、こちらへも足を伸ばしてみるといいかもしれません。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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