今川氏真の肖像画

今川家

義元の死後に跡を継いだ今川氏真は御家を潰した愚将か?本人は77歳の長寿を全う

大河ドラマ『豊臣兄弟』の第4回放送で織田信長に首を取られた今川義元。

その跡を継いだ今川氏真(うじざね)をご存知であろうか?

和歌や蹴鞠を趣味とし、名門・今川家を潰した「愚将」として戦国ファンには知られ、実際、桶狭間の戦いで父の義元が死んでから、8年後の永禄十一(1568年)には本拠地・駿河を追われている。

武田信玄と徳川家康に攻め込まれ、最終的に北条氏康を頼ることになったのだ。

一方で、本人は77歳までの長寿を全うするほどで、高家旗本として子孫を江戸時代に繋いでいる。

今川氏真の肖像画

今川氏真/wikipediaより引用

いったい今川氏真とはどんな武将だったのか?

生涯を振り返ってみよう。

戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

義元の嫡男として誕生

今川氏真は天文七年(1538年)、義元の嫡男として誕生した。

母の定恵院は、武田信玄の姉。

つまり信玄から見れば氏真は甥であり、後に氏真は叔父に滅ぼされるわけだが、最初から愚将として扱われていたわけではない。

永禄元年(1558年)には駿河で発給文書が見られ、国政に携わっていたことから、すでに家督を継いでいたのではないか?とも指摘される。

今川義元の肖像画

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

むろん最高権力者は父の義元であり、その義元が永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで討死したため、氏真が名実ともに今川家の当主となった。

力量が問われるのは、その後の対応であろう。

当時の年齢は数えで23歳。

永禄三年(1560年)から永禄十一年(1568年)まで、武田家や徳川家に囲まれよくぞ耐えたというべきか。

それとも局面を打開できない愚将であったのか。

判断材料は主に以下の三つ。

◆妻の早川殿と北条家

◆徳川家康の独立

◆祖母である寿桂尼の存在

氏真の事績と共に一つずつ見てみよう。

 


北条氏康に支えられるも

今川氏真の妻・早川殿は、北条氏康の娘であった。

天文二十三年(1554年)、今川・武田・北条の間で「甲相駿三国同盟」が結ばれたときに駿河へ嫁いできた女性であり、氏真との関係は良好。

北条氏康の愛娘である彼女がいたからこそ今川家にとって東側の憂いはなく、義元の死後でも、西側で独立を画策する三河の徳川家や遠江の国衆らの制圧に集中できる状況だった。

しかし、ここで氏真は尽く失策を重ねてしまう。

まず桶狭間の戦い後に、岡崎城へ入城した家康について。

家康はすぐには独立の姿勢を見せず、今川家・徳川家・織田家の間で緊張状態が続き、永禄五年(1562年)1月、徳川家と織田家の間で「清洲同盟」が結ばれたのを機に、氏真は三河へ攻め込んだ。

しかし、戦果は挙げられず。

さらに氏真は、三河や遠江の人質や国衆を処刑するなどして、反今川の動きを加速させてしまった。

例えば、大河ドラマ『おんな城主 直虎』で故・三浦春馬さんが演じて話題になった井伊直親もその一人で、永禄五年12月、今川に殺害されている。

こうした諸々の失策が重なった結果、どうなったか?

永禄五年(1562年)から同九年(1566年)にかけ「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる大きな反乱が勃発して、遠江の支配をガタガタにしてしまった。

一方、三河で完全な独立を果たした家康は、永禄六年(1563年)に以前の「松平元康」から「徳川家康」へと改名している。

「元康」は今川義元からの偏諱(一字をもらうこと)であり、その名を捨てることで、名実ともに独立を果たしたのだった。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikipediaより引用

 

祖母・寿桂尼の死後に武田軍が侵攻

こんな調子では本拠地・駿河の支配もボロボロになるのでは?

というと実際その通り。

老臣・三浦義鎮が幅を利かせ、他の重臣たちが反発すると、そこで家臣団引き締めのために出てきたのが、今川義元の母で氏真にとっては祖母となる寿桂尼だった。

寿桂尼の肖像画

寿桂尼/wikipediaより引用

彼女は以前から、自らの名で発給文書を出していたほど国政に通じており、孫である氏真を補佐。

しかし家中の統制混乱が完全に止むことはなく、永禄十年(1567年)そうした動きを察知した武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄すると、氏真の妹で武田義信の妻である嶺松院を駿河へ送り返してきた。

もはや一触即発の状況である。

信玄の同盟破棄に反発した北条氏康は、甲斐に対する「塩留」を行う程で、その結果、越後から入ってくる塩が後世で注目され「敵に塩を送る」という言葉が生まれている。

美談として知られるこの話。実は越後から甲斐へ入る塩の販売が規制されなかっただけで、上杉謙信による義侠心ではない。

◆詳細は別記事「敵に塩を送る」へ

いずれにせよ寿桂尼の存在は小さくなかったようで、永禄十一年3月14日(1568年4月11日)に彼女が亡くなると、その年の暮れ、武田軍と徳川軍による駿河遠江への侵攻が始まった。

 

上京後は和歌や蹴鞠に興じ 再び徳川家へ

武田軍による駿河侵攻はほとんど一方的だった。

信玄は反三浦派を中心に以前から今川家の家臣団を調略しており、あっという間に駿河本拠地の府中城を攻略。

今川氏真は遠江の掛川城へ逃れ、忠臣として名を馳せる朝比奈泰朝に保護されるが、徳川軍も遠江へ侵攻して浜松城などを落とすと、その後、掛川城を包囲した。

氏真の“強運”が発揮されるのはここからだ。

武田軍の動きに不信感を抱いた徳川家康が、掛川城を攻め滅ぼすのではなく、氏真の援軍としてやってきた北条家と和議を締結。

そして永禄十二年(1569年)5月、氏真は殺されることなく城を明け渡し、北条氏康のもとへ送られた。

北条氏康(左)と北条氏政の肖像画

北条氏康(左)と北条氏政/wikipediaより引用

このとき「駿河は氏真の元へ返す」という約定が結ばれたが、現実には果たされず、紆余曲折を経て元亀二年(1571年)には北条家からも追い出されてしまう。

氏康の跡を継いだ北条氏政が、再び武田家と手を結び、氏真がいられなくなったのだ。

しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、同年12月、氏真は家康の浜松へ身を寄せた。

今川氏真はやはり戦国大名には向いていなかったのか。

その後、徳川家から離れて上京すると、公家らと共に和歌や蹴鞠などに興じ、驚くべきことに天正三年(1575年)には父の仇である織田信長のもとで御伽衆となったとも伝わる(真偽の程は不明)。

和歌は約1700首も残すほど。

観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)に1658首掲載

家康により、一時期、三河の牧野城主にも任ぜられたが、天正五年(1577年)に没収されると、最終的に武蔵・品川に屋敷を与えられた。

そして慶長一九年(1614年)12月28日に死去。

徳川vs豊臣「大坂冬の陣」まで生き永らえる、享年77の長寿であった。

大河ドラマ『豊臣兄弟』では、桶狭間までの進軍中に今川義元が蹴鞠に興じるシーンがあった。

息子の氏真も名人級の巧さだったと伝わっており、今後あらためてドラマでも取り上げられるかもしれない。

今川氏真の死後は今川範英(直房)が跡をつぎ、その子の高久は品川氏を称して高家旗本となり、江戸時代を通じて存続している。

なお、父の事績については別記事「今川義元の生涯」をご参照あれ。

『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説


【参考書籍】

国史大辞典
武田氏研究会『武田氏年表(信虎・信玄・勝頼)』(2010年2月 高志書院)

【TOP画像】今川氏真/wikipediaより引用

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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