大河ドラマ『豊臣兄弟』で松尾諭さんが演じる大沢次郎左衛門は、斎藤氏に仕えた美濃の武将です。
信長や秀吉の美濃攻略の際に関わったとされる、その実像を振り返ります。
東美濃の玄関口・鵜沼城の城主
大沢次郎左衛門は一言でいえば謎多き武将です。
生没年は不詳で、諱(名前)は正秀や基康、正重と伝わり、美濃鵜沼城(うぬまじょう・宇留摩城)の城主であったことが『信長公記』や『太閤記』に記されています。
鵜沼城は、斎藤氏の本拠地である稲葉山城(後に岐阜城)から見て東にあり、そのすぐ南には織田方の犬山城。
両城の間には木曽川が流れて、対峙していました。

この鵜沼城が、美濃斎藤氏にとってかなり重要な位置に建っていたことは、上の地図からご理解いただけるでしょう。
織田軍はこの拠点をどう攻略したのか?
まずは『信長公記』の記録から見て参りましょう。
徐々に北上する織田信長
永禄三年(1560年)5月、桶狭間の戦いに勝利した織田信長は、その3年後、清州城の北にある小牧山城へと本拠地を移転。
そして永禄七年(1564年)8月、小牧山城からさらに北にあり、尾張国内で敵対していた織田信清(信長の義兄)の犬山城を攻略しました。
目標である稲葉山城の当主は斎藤龍興です。
そこへ一気に攻め上がるのではなく、徐々に北上して足場を固めていったのですね。
桶狭間のときとは打って変わって堅実に勢力範囲を塗り替えていく信長は、翌永禄八年(1565年)から木曽川の向こうにある鵜沼城の攻略に取り掛かりました。
このとき同城主だったのが大沢次郎左衛門。

織田軍は、鵜沼城の付近・伊木山に付城(つけじろ)を設置すると、城下を焼き払い、秀吉が大沢次郎左衛門の調略を成功させました。
永禄八年(1565年)8月のことであり、この時さらに鵜沼城のすぐ北にあった猿啄城(さるばみじょう・勝山城)も丹羽長秀が攻め落とします。
木曽川を渡った重要拠点を得て、織田軍は「いつでも稲葉山城へ攻めることができるぞ」と斎藤氏へプレッシャーをかけられるようになったわけです。
秀吉と丹羽長秀が功績を重ね、後の出世に繋がる様子がうかがえますね。
一方、『太閤記』には異なる状況が記されています。
『太閤記』自ら人質になり
『太閤記』では永禄九年(1566年)12月、秀吉が大沢次郎左衛門の調略に成功。
織田信長に引き合わせるため翌永禄十年1月に清須城へと連れていくのですが、このとき信長から「大沢を殺せ」と秘かに命じられてしまいます。
困った秀吉は、そこで自らが人質になって大沢を逃がし、忠義を尽くして信長や周囲の信頼を得ていったことが記されています。
『太閤記』よりも信頼性が高い『信長公記』とは、時期に違いが見られますね。
他に『武功夜話』にも「信長に赦されるまで鵜沼城にいた秀吉の人柄に大沢次郎左衛門がすっかり心服した」という描写が見られますが、同書はあくまで創作として捉えておいたほうがよいでしょう。
いずれにせよ『太閤記』と『武功夜話』の記述は、あくまで秀吉賛美のためと思われます。
興味深いのは、その後の大沢次郎左衛門の去就です。
実在したことは間違いなく、秀吉との間に何らかの関係性があったこともうかがえまして……。
秀次事件で追い出される
天正十年(1582年)8月、大沢次郎左衛門は柴田勝豊(柴田勝家の甥で養子)に仕えると、その後は豊臣秀吉、そして豊臣秀次に仕え、2600石の所領を与えられます。
しかし、そこが運の尽きでもありました。
豊臣秀次は、豊臣秀頼が生まれた後に自害事件を起こして豊臣政権に動揺を与え、結果、妻子はじめ多くの関係者が処刑や処罰をされています。
大沢次郎左衛門もその一人となってしまうのです。
文禄4年(1595年)といえば、間もなく秀吉も60歳を迎える頃であり、かつて自身が調略した相手のことなど覚えていなかったかもしれません。
豊臣家を追い出された大沢次郎左衛門は美濃へ戻り、その後、小田原の万松院へ。
没年は不明ながら76歳で亡くなったとされます。
なお、秀次の自害事件が気になる方は別記事「豊臣秀次の生涯」をご参照いただければ幸いです。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
堀新/井上泰至ほか『秀吉の虚像と実像』(2016年6月 笠間書院)
【TOP画像・本文イラスト】小久ヒロ
