小学校の歴史の授業で、初めて習う大きな出来事と言えば?
「乙巳の変」あるいは「大化の改新」と答える方も多いでしょうか。
我が物顔で政権を操る蘇我入鹿。
そんな入鹿の排除を実行する中大兄皇子と中臣鎌足。
やがて中大兄皇子は天智天皇となり、日本国内の政治制度が一新されていく――そんな習い方をしますが、果たして現在その見方はどうなっているのか。
皇極天皇四年(645年)6月12日は「乙巳の変」が起きた日。

中大兄皇子と中臣鎌足に討たれる蘇我入鹿/国立国会図書館蔵
当時を振り返ってみましょう。
「大化の改新」と「乙巳の変」は同じではない
まず確認しておきたいのが、言葉の違いです。
「乙巳の変」と「大化の改新」はどういう意味なのか?
かつての授業で教えられた「大化の改新」は、蘇我入鹿の暗殺から新政権の確立までひとまとめにされがちでした。
現在は、皇極天皇四年6月12日に蘇我入鹿が討たれた事件を「乙巳の変」と呼び、その後に進められた政治改革を「大化の改新」と分けて考えます。
ここを混同すると、まるで中大兄皇子と中臣鎌足が最初から律令国家建設の設計図を持っていて、入鹿を倒した翌日から一気に新制度を作り上げたかのように見えてしまう。
しかし実際は、そこまで単純ではありません。
乙巳の変は、理想に燃えた若者たちが古い権力を倒した美談というより、当時の王権内部で起きた生々しいクーデターと言えるでしょう。
そこで悪役にされてしまいがちなのが蘇我氏です。
蘇我入鹿は本当に悪人だったのか
蘇我氏はなぜ悪人とされてしまうのか。
・蘇我馬子は物部氏を倒し、崇峻天皇を暗殺したとされる
・その後、蘇我蝦夷が政権を握り、さらに蘇我入鹿の代では聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼした
こうした流れだけを見れば、たしかに当時の天皇を脅かした横暴な一族と映るかもしれません。
しかし、果たしてそうなのか。
そもそも蘇我氏は、当時の大王家と婚姻関係を結び、仏教の導入や外交、財政、氏族間の調整などを担った最有力の豪族でした。
私利私欲で政権を乗っ取ろうとした一族というより、王権の中枢を支える実務担当者だったと言える。
問題は、あまりにも権力が強くなりすぎたことでしょう。
蘇我氏の本拠は飛鳥にあり、宮廷政治の中心に近い。
外交や仏教政策にも関わり、天皇との血縁も深い。
他の有力者たちからすると、彼らだけが政治を牛耳っているようにも見え、特に決定的だったのが、皇極天皇二年(643年)に起きた山背大兄王一族の滅亡です。
山背大兄王は、聖徳太子の子とされる有力な皇位継承候補でしたが、蘇我入鹿によって追い詰められ、一族で自害に至った。

聖徳太子/wikipediaより引用
これにより蘇我氏への反感は一気に強まります。
中大兄皇子や中臣鎌足にとって蘇我入鹿は単なる邪魔者ではなく、皇位継承や政権の主導権をめぐり放置できない存在になっていたのです。
乙巳の変は宮中で起きた計画的暗殺
皇極天皇四年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮では、朝鮮半島諸国からの使者を迎える儀式が行われていました。
その場に出席していた蘇我入鹿。
突如、中大兄皇子らに襲撃され、斬られます。
「なぜ私が討たれなければならないのか……」
皇極天皇の前に倒れ込んだ入鹿は、そう訴えたとされます。
「皇族を滅ぼし、皇位を脅かしたからだ」
入鹿に対して、そう主張する中大兄皇子。
皇極天皇はその場から静かに離れます。

皇極天皇(斉明天皇)/wikipediaより引用
天皇自身が入鹿の処断を命じたのではなく、中大兄皇子と中臣鎌足が宮中儀礼の場を利用してクーデターを起こし、入鹿を孤立させて討ったのです。
この出来事を受け、入鹿の父である蘇我蝦夷は翌日、自邸に火を放って自害。
蘇我本宗家は滅亡しました。
しかし、蘇我氏そのものが消滅したわけではなく、傍系はその後も朝廷に残ります。
中大兄皇子はなぜすぐ即位しなかったのか
乙巳の変の主役とされる中大兄皇子は、事件後すぐに天智天皇にはなってはいません。
まずは皇極天皇が譲位して、孝徳天皇が即位。
中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足らと共に新政権を支える立場に回りました。

天智天皇(狩野探幽「百人一首画帖」個人蔵)/wikipediaより引用
なぜ、すぐ天皇にならなかったのか?
「これだ」という理由を一つに絞ることはできません。
まず政変直後の権力移行を安定させる狙いがあったと考えられますし、入鹿を討った当事者が即座に即位すると、あまりに露骨な権力簒奪だとして批判される可能性もあります。
そもそも当時の皇位継承は、単純な長子相続ではなかったことも大きいでしょう。
天皇家内部の血筋、母方の出自、豪族との関係など、複雑な要素が絡んでおり、中大兄皇子はまず実力者として政権中枢を握りながら、形式上は孝徳天皇を立てた。
この構図から「大化の改新」へと繋がっていきます。
無視できない東アジアの情勢
乙巳の変から始まる大化の改新は、海外の影響も強く受けているとされます。
七世紀半ば、中国では唐が勢力を拡大し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が緊張関係にあって、日本の王権にとって他人事ではありません。
朝鮮半島との外交・軍事関係をどう構築するのか。
唐のような巨大帝国とは、どう付き合うか。
そもそも日本国内の支配制度は、従来の豪族連合的な集まりのままでよいのか。
こうした危機感から、中央集権化への動きが強められ、乙巳の変後、次々に改革が進められていきます。
結果、全国をより直接的に支配する方向へ舵を切ったのです。
「公地公民」は一夜にしてならず
大化の改新でよく出てくるのが「公地公民」ですね。
土地と人民は豪族の私有ではなく、国家に属するという考え方。
ほかにも地方支配の再編や戸籍・税制の整備など、後の律令国家につながる制度が、長い時間をかけて形作られていきます。
それらが皆、乙巳の変直後に実施されたわけではありません。
実際には長い時間をかけて進められます。
中大兄皇子、のちの天智天皇の時代から、壬申の乱後の天武・持統朝、さらに大宝律令へと続く過程の中で、律令国家の仕組みは整えられました。
「入鹿を倒したら理想の国家ができた」という話ではないんですね。
なぜ中臣鎌足も重要なのか
乙巳の変でもう一人の重要人物が中臣鎌足――後の藤原鎌足であり、藤原氏の祖となる人物です。

藤原鎌足肖像(菊池容斎画)/wikimedia commons
鎌足はもともと中臣氏の出身で、祭祀を担う家柄でした。
彼は早くから蘇我入鹿の権力集中を警戒し、中大兄皇子に接近。
二人は蹴鞠の場で出会ったという有名な逸話もありますが、重要なのは鎌足が単なる補佐役に終わらなかったことでしょう。
入鹿を討つ計画を練った鎌足は、協力者を集め、政変後の政治体制づくりにも深く関わります。
そして鎌足の子孫である藤原氏は、奈良~平安時代を通じて朝廷政治の中心へ。
乙巳の変は、蘇我氏本宗家の没落と同時に藤原氏の台頭でもありました。
乙巳の変とは何だったのか
乙巳の変とは結局なんだったのか?
単純にいえば、蘇我本宗家を排除した宮廷クーデターです。
が、それだけでは説明が足りません。
事件には、皇位継承をめぐる対立があり、蘇我氏の権力集中への反発がありました。
さらには唐や朝鮮半島情勢を前に、王権を強化しなければならないという時代の圧力もあった。
その結果、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を討ち、新たな政治体制へ踏み出したのです。
ただし、それは正義の改革派が悪の豪族を倒したという単純な物語ではなく、蘇我氏にしてみればライバル勢によって政権中枢から排除されたクーデターでした。
まさに歴史は勝者によって語られる。
乙巳の変ほど、そのことを実感しやすい古代史の事件も少ないでしょう。
参考文献
【TOP画像】中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺される蘇我入鹿『少年日本歴史 第一編 古代の卷』「入鹿誅伐」/国立国会図書館蔵
