本能寺の変を知った羽柴秀吉が、毛利と和睦を結んで畿内へ進軍――。
いわゆる「中国大返し」が大河ドラマ『豊臣兄弟』の第28話でも描かれましたが、皆さん、不思議に思いませんでした?
なぜ毛利は秀吉を追撃しなかったのか。
相手はこれまで散々辛酸を舐めさせられてきた羽柴軍。
毛利の大軍をもってすれば、背中を見せた秀吉など造作もないように見えるだけに、後世の戦国ファンからは「絶好の好機を逃した」とも指摘されます。
果たして毛利勢は、痛恨の判断ミスをやらかしてしまったのか。
当時の状況を振り返ってみましょう。
そもそも毛利は"追える"状態だったのか
本能寺の変が起きる直前の天正十年(1582年)6月当時、備中高松城ではどんな戦況になっていたのか。
よく知られているのが、やはり“水攻め”でしょう。

歌川国芳が描いた備中高松城の戦い/wikimedia commons
低湿地帯にある備中高松城を堤防で囲み、水没させてから、城の周囲に頑丈な陣城を築き、徹底包囲する。
そんな秀吉の作戦に対し、救援にやってきた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の本軍は、羽柴軍を睨むだけで動くに動けませんでした。
こうした状況から、
「高松城は落ちる寸前で、毛利は後がなかったからこそ、秀吉の講和交渉に飛びついた」
というイメージで語られますが、果たしてその見方は正しいのか?
研究者の光成準治氏は著書『小早川隆景・秀秋』の中で「備中高松城側が絶望的だったとは言い切れない」と指摘しています。
水攻めの堤は5月上旬に築かれたのですが、5月下旬にはもう水位が下がっており、毛利方の熊谷信直も5月22日の書状で「高松の水も以前より減っているように見えます」と書いているほど。
6月初頭の時点で、これ以上の籠城は絶望的だったとは言い切れません。
では毛利方に余裕があったのか?というと、実情は苦しかった。
秀吉の堅い陣城を突き崩すだけの兵力はなく、しかも味方の水軍勢力が離れつつあり、長期戦を支える物資の輸送にすら詰まっていたのです。
どちらも決め手を欠いたままの睨み合い、そんな状況でした。
毛利は本能寺の変をいつ知ったのか
そうなると俄然、重みを増してくるのが「本能寺の変」の一報です。
織田信長が明智光秀に討たれたことを、毛利はいつ知ったのか?

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
講和を結んだ時点で情報が届いていなかったら、みすみす秀吉を逃してしまったことになるし、逆に知っていて追わなかったなら判断ミスだったという話になりかねません。
んで、結論は?
残念ながら、ここがハッキリしません。
先の光成準治氏も「結論を出すのは困難」と述べているほど。
瀬戸内は海路で情報が速く伝わる土地柄ですから、思いのほか早くに毛利勢が知っていた可能性は否定できません。
しかし、それを裏づける確かな史料はなく、残念ながら「不明」という他ありません。
ただ、毛利が本能寺の変を知っていても知らずとも、秀吉に襲いかかる可能性は低かったのでは?と指摘されています。
なぜ、そう思われているのか?
「元春は追撃を叫び、隆景が止めた」は本当か
本能寺の変後の和睦を巡っては、有名なエピソードがあります。
血気盛んな兄・吉川元春が「今こそ秀吉を追え!」と主張したのに対し、冷静な弟・小早川隆景が「一度結んだ講和を破るのは武士の道に反する」と押しとどめた。
そして安国寺恵瓊は、秀吉にうまく丸め込まれて講和をまとめてしまった――。
軍記物『陰徳太平記』などが伝える印象的な場面です。
兄は猛将、弟は智将、そしてその間で暗躍する外交僧。

月岡芳年が描いた安国寺恵瓊/wikipediaより引用
いかにもキャラ立ちしていて面白い構図ではありますが、確かな史料から見ると、この図式はかなり怪しい。
もしも元春が本気の追撃強硬派だったら、その後も秀吉や羽柴家を敵視してそうですが、山崎の戦いから間もない天正十年(1582年)7月18日には、早くも秀吉方の蜂須賀家政へ戦勝を祝う書状を送っています。
弟の小早川隆景とも足並みが揃っていて、まるで敵意を感じさせない。
研究者の光成氏も、この事実から「元春が秀吉に対して強硬路線だった説は否定される」としています。
そもそも『陰徳太平記』は、吉川家の正当性を強調するタイプの軍記物であり、関ヶ原直後の毛利家の立場を肯定するような描き方と指摘されています。
吉川元春を「秀吉を追うべきだと主張した名将」、小早川隆景を「冷静に止めた智将」、安国寺恵瓊を「秀吉に丸め込まれた外交僧」という姿があまりにも出来すぎているのですね。
追撃しない判断は"損"だったのか
秀吉を追撃しなかった毛利勢――それは何も小早川隆景一人の判断ではありません。
吉川元春も含めた毛利中枢の総意であり、根本にあったのが兵站の限界と、毛利家の伝統的な方針でした。
毛利家では毛利元就の代から、本国の支配を揺るがすほどの大敗でなければ、国境地帯の領土を多少奪われても受け入れるという現実的なスタンスを取っていたのです。

毛利元就/wikipediaより引用
彼らの本領は、高梁川より西。
備中高松城のあたりは、あくまで東の国境地帯にすぎません。
清水宗治という城将ひとりの切腹と引き換えに秀吉が軍を引き上げ、備中の大部分を保てるのなら、毛利にとって悪い取引ではなかった。
とても秀吉の背後に襲いかかる博打など打てない。
要は、家の命運を賭けるだけの状況ではないと判断されたのですね。
もちろん、結果だけ見れば「あのとき追っていれば、天下の趨勢は変わっていたかも……」と言えるかもしれません。
しかしそれは秀吉が天下を取った後だからこそ言える話であり、まだ何もわからない状況で羽柴軍に襲いかかり、さらには上洛を果たすなんて無謀な考えを抱くことはなかったのでは?
こうした毛利の対応により、その煽りをモロに喰らった武将がいます。
明智光秀です。

明智光秀/wikimedia commons
毛利の沈黙が山崎の光秀を追い込んだ
戦国時代の和睦などいつ破られるかわからない。
しかし毛利は動かない。
背後を敵に追われる心配から解放された羽柴秀吉は、安心して全軍を東へ向けられました。

絵・富永商太
そして、その勢いのまま山崎で明智光秀と激突。
光秀の側から見ると、これは不運というか、あまりにも残酷なシチュエーションでした。
水攻めまでして備中高松城を囲み、さらには明智軍や織田信長の出陣を要請していたのは、他ならぬ秀吉です。
そんな状態で、まさかすぐに毛利と和睦を結んで、畿内まで戻ってこれるはずがない――西の大国を前にして羽柴軍はすぐに動けない、と光秀は少なからず期待していたでしょう。
しかし、結果はまるで違った。
光秀の予想に反して、毛利は秀吉との講和を維持し、羽柴軍が京都へと迫ってきた。
一方、明智勢に味方が集まらず孤立していく状況は、毛利の姿勢も影響していたんですね。
まとめ
なぜ毛利は秀吉の背後を追撃しなかったのか?
吉川元春と小早川隆景の性格の違い、あるいは安国寺恵瓊の暗躍といった話はやはり軍記物であり、史実ではないというのが正しいところなのでしょう。

左から小早川隆景・毛利輝元・吉川元春/wikimedia commons
備中高松城は落城寸前とは言い切れなかった。
しかし毛利にも追撃の余力はなかった。
そんな毛利家の方針からして、備中の一部を手放して講和するほうが理にかなっていたのであり、たとえ秀吉との交渉前に本能寺の変の情報を掴んでいたとしても、同じ判断となった可能性を感じさせます。
「動かない」こともまた戦国大名の重要な決断。
めぐりめぐって秀吉と光秀の戦いに影響したのでした。
なお「山崎の戦い」そのものの詳細は以下の記事にございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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山崎の戦い|秀吉と光秀が正面から激突!勝敗のポイントは本当に天王山だった?
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参考文献
- 光成準治『小早川隆景・秀秋(ミネルヴァ日本評伝選)』(2019年3月 ミネルヴァ書房)
- 光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』(2023年8月 戎光祥出版)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)
