3才で織田家の当主となった三法師は、マトモな武将になれたのか――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』をご覧の皆さんは、そんな想いを抱いたことはありませんか?
いくら戦国時代とはいえ、周囲の大人がとにかくヒドい。
三法師の父である織田信忠と祖父の織田信長が、明智光秀に謀反を起こされたかと思えば、その直後から羽柴秀吉や織田信孝の権力争いに巻き込まれ、居場所を転々とさせられてしまう。
戦国時代はそんなもん、と言われれば確かにその通りですが、それでもやっぱり気になってしまいます。
あの可愛い幼児は、将来どうなってしまうのだろう?

ということで、三法師の成長を確認しておきましょう。
三法師はどれだけ翻弄されたのか
三法師は天正八年(1580年)、織田信忠の子として誕生。
母は摂津の領主・塩川長満の娘とされ、天正十年(1582年)に早くも試練を迎えます。
ご存知、6月2日に「本能寺の変」が起きて父の信忠や祖父の信長が亡くなり、三法師はわずか3才(数え)で織田家の家督を継ぐことになりました。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
そこから先が茨の道であることは、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれている最中ですね。
◆天正十年(1582年)6月
→清須会議で三法師に家督継承が決まるも、安土城が焼け落ちていたため岐阜城の織田信孝に連れていかれる(ドラマの第31回放送はここまで)
◆天正十年(1582年)12月
→岐阜城の信孝が秀吉に囲まれ降伏すると、三法師は安土城へ移り、その後は京都や坂本城を転々
◆天正十二年(1584年)
→小牧・長久手の戦いで秀吉に担がれるも、最終的に織田家の家督を失ってしまう
いかがでしょう。
自分の意志とは関係なく、大人の都合で居場所が決まり、挙句の果てには織田家当主の座を降ろされてしまう。
戦国時代とはいえ、さすがに厳しすぎませんか。
「小牧・長久手の戦い」の講和後、織田家中の主導権は信雄へ移り、秀信は当主としての実権を失いました。

織田信雄/wikipediaより引用
もう無茶苦茶じゃないですか。
しかも秀吉、小牧・長久手の戦いでは5才の三法師を元服させ、戦いに駆り出しているのです。
といっても、現実に戦場へ赴くのは不可能ですから、代わりの家臣が出陣したのでしょう。
おまけに秀吉は「秀」の字を与え、三法師の名を「秀信」としました。
羽柴家が織田家より上になったことを示すかのような振る舞いですが、ここから先、話は意外な方向へ進みます。
官位や家格は別格扱い
天正二十年(1592年)、岐阜城主だった豊臣秀勝が病没すると、その遺領を継承したのが三法師こと織田秀信でした。
当時は数えで13才。
祖父と父ゆかりの岐阜城に、当主として舞い戻ってきたのです。

三法師が成長して織田秀信となる/wikipediaより引用
この秀信、翌文禄二年までに権中納言へ昇進します。
これが、どれくらいスゴイのか?
というと秀吉の甥だった豊臣秀勝が死ぬ直前の時点で「四位侍従」の官位で、その上には豊臣政権の重鎮だった上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元、前田利家といった錚々たる面々が並んでいました。
権中納言になった秀信は、この4人を一気に追い越したのです。
あくまで名目的な序列とはいえ、異例の抜擢でした。
なお、その前年の天正十九(1591年)年正月、秀吉が参内した際にも興味深い記録があります。
式三献(しきさんこん)という出陣の儀式に参列した9人の大名(宇喜多・上杉・毛利・前田・徳川秀忠など)に並んで、秀信の名も挙がっていたのです。
石高こそ13万3000石に過ぎませんが、家格は明らかに別格扱い。
では、その家格に相応しい働きをしていたのか?
領主としての織田秀信を見てみましょう。
岐阜の統治は問題なし
織田秀信の重臣・与力には、斎藤元忠、百々安信、木造長政、滝川益成などの武将が付けられました。
秀信本人は在京することが多く、実務はこの重臣たちが中心となって対応。
現在残る文書では寺社宛の禁制や諸役免除が確認できます。
果たして秀信は一人前の武将と言えるのか?
研究者・柴裕之氏の編書『戦国武将列伝 別巻1 織田』によると、岐阜城主時代の秀信について「大きな問題は見えず、無難に治めていた」と評価しています。

岐阜城/wikipediaより引用
派手な功績はない。
しかし、大きな失政もない。
あれだけ振り回された幼少期のことなどは感じさせず領国経営に携わっていて、十分に合格点が与えられるのではないでしょうか。
問題は関ヶ原の戦いでしょう。
関ヶ原の戦い前に岐阜城で
慶長五年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦い。
秀信は石田三成方、つまり西軍につきました。
単なる数合わせで合戦では怯えるばかりであった――なんてことはなく、本戦が始まる前の同年8月22日、木曽川の渡河を防ぐため約2000の軍を率いて出陣しています。
しかし、その戦いに敗れると、翌23日には福島正則・池田輝政らに岐阜城を攻められ、わずか1日で落城してしまいました。

福島正則/wikipediaより引用
そのため
・祖父の信長や父の信忠と比べてふがいない
なんて評価もされがちですが、合戦の条件を並べてみるとその印象は変わります。
◆そもそも兵力が圧倒的に劣っていた
◆美濃国内の各地で一揆が蜂起し、そっちにも兵を割かれていた
◆攻め手の池田輝政はかつての岐阜城主であり、城の構造を熟知していた
◆大垣城にいた三成らの救援が間に合わなかった
この「岐阜城の戦い」であっさり敗北した秀信を軍才がないと切り捨てるのは、さすがに話を単純化しすぎではないでしょうか。
確かに若くして名将とは言えない。
素晴らしい戦略眼はなかったのかもしれない。
ただ、福島正則という勇将を前にして、戦わずに逃げた腰抜けでもありませんでした。
そして関ヶ原での評価については、もうひとつ注意しておきたいことがあります。
「愚か者」の評判は?
織田秀信が西軍についた経緯について、江戸中期以降の『慶長見聞書』などには、以下のような話が載っています。
徳川家康の上杉征伐に参加する支度をしていたが、家中が華美風流にふけって準備が進まない。
そこへ三成の使者が来て「大国を数ヶ国進上するから秀頼様の後見をしてほしい」と誘われ、家老の百々・木造の反対を押し切って西軍についた。
いかにも愚かな当主、という描き方ですが、この話には裏があります。
反対したとされる百々氏・木造氏は、後に江戸幕府の幕臣になっているのです。
秀信とその家中を三成の謀反に乗っかった愚か者として描き、逆に、反対した家老を賢臣として描く——つまり徳川の治世で都合よく整えられた可能性があり、そのまま信じるのは危険というわけです。

石田三成/wikipediaより引用
実際のところ、美濃国内の大名の大半は7月上旬時点でまだ在国・在京していました。
三成らが家康を弾劾し、豊臣政権の本流として振る舞い始めた以上、美濃衆が西軍につくのはむしろ自然な流れであり、秀頼の名で命じられれば断れるはずもない。
秀信の判断は愚かというより、当時の常識に沿ったものだったのでしょう。
26才で迎えた最期
岐阜城の落城後、織田秀信は城下の浄泉坊(現在の円徳寺)で出家しました。
戦後は助命されて高野山へ向かい、慶長十年(1605年)5月8日、26才の若さで死去してしまいます。
ただし、和歌山県内には、別の伝承も残されました。
祖父の織田信長が高野山を攻撃したため、秀信は山に入れず麓の村に居を構え、そこで迎えた女性とのあいだに子をもうけ同年7月27日に病死したというものです(『紀伊続風土記』)。
祖父の罪が、孫にまで影響しているとは、最期まで不憫な方です。
もうひとつ、秀信の人となりを知る手がかりはキリシタンだったという事でしょうか。
慶長元年(1596年)に洗礼を受け、翌年には弟や乳母も続きます。
公にされたのは秀吉の死後で、岐阜城下には立派な天主堂も建てられました。
宣教師の報告によると「稀に見る才能を有する若者」という評価も残っていますが(『イエズス会日本報告集』1595年度)、布教報告という史料の性格を踏まえると、この人物評価は慎重に読む必要があります。
まとめ
三法師改め織田秀信は、マトモな大人に育ったのか。
少なくとも、幼少期の境遇から秀信を無能・暗愚とみなす根拠はありません。

目立つ武功には乏しい一方、岐阜では大きな混乱を起こさず、関ヶ原でも圧倒的不利な状況で抗戦しました。
名将と断定する材料はない。
されど、後世に語られる愚将などではなく、真っ当な武将と評価してもよいのではないでしょうか。
なお、ドラマでも注目されている三法師の祖父・織田信長の葬儀について、以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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信長の葬儀はなぜ二度行われたのか?お市と秀吉が争った法号と後継者の座
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【参考文献】
- 柴裕之編著『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年 KADOKAWA)
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年 KADOKAWA)
- 『慶長見聞書』『慶長軍記』『紀伊続風土記』『多聞院日記』『蓮成院記録』『兼見卿記』『聚楽第行幸記』『時慶記』/『十六・七世紀イエズス会日本報告集』

