美濃の織田信孝を討つため、賤ヶ岳の戦場を離れた羽柴秀吉。
それが急に戦場へ戻ってきて、佐久間軍に襲いかかり、戦況を引っくり返してしまう様子が大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれましたが、皆さん、違和感はありませんでしたか?
賤ヶ岳の戦場から美濃大垣まで、実は約52kmもの距離があります。
それを1万を超える大軍があっという間に移動するのですから、一体どうやったんだよ!と疑問に思うほうが普通の感覚でしょう。
「美濃大返し」として知られる、この進軍。
秀吉はどのようにして成功させたのか?

豊臣秀吉/wikipediaより引用
天正十一年(1583年)4月20日の一日を追いかけてみましょう。
揖斐川に足止めされた羽柴軍
天正十一年(1583年)4月、賤ヶ岳――。
織田家の政権運営を巡って衝突していた柴田勝家と羽柴秀吉は、琵琶湖の北方に数多の陣城を構築。
互いに牽制しあって、両軍がなかなか動けない中で、膠着を破ったのが織田信孝でした。
岐阜城で挙兵したのです。
かつて秀吉に城を囲まれ、降伏へと追い込まれていた信孝ですが、勝家の出陣に呼応して再び立ち上がったのですね。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
もちろん秀吉としても放置しておけません。
信孝を討伐するため、2万の大軍を率いた秀吉は賤ヶ岳を離れて美濃大垣へ。
そこで信孝包囲の準備を進めるのですが、あと一歩というところで意外な敵に足止めを喰らってしまいます。
揖斐川(いびがわ)の増水です。
天候一つで、たちまち移動が困難となってしまう戦国時代。
岐阜城まであとわずか14キロという地点で、秀吉軍が足踏みしていると、程なくして賤ヶ岳から報せが届きました。
佐久間盛政の急襲により、大岩山砦が落ち、中川清秀が討たれた——。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、裏切り者として描かれた清秀ですが、実は秀吉も信頼していた勇将です。それが討たれてしまった……。
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研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で、秀吉が午前10時頃にこの一報を受けたと指摘。
軍記物『賤嶽合戦記』では、正午に昼食を取っていた秀吉が、注進を聞いて思わず箸を落としてしまったと描いています。
それほど驚いていた……と思いきや、実際の秀吉は真逆の反応をしたとか。
戦局が動いたことで好機到来、ようやく雌雄を決することができるため歓喜したというのです。
これは一体どういうことなのか。
確かに当時の記録には、妙なことが残されています。
秀吉は6時間で何を準備したのか
妙なこととは時間のことです。
秀吉が、清秀討死の敗報を受けたのは午前10時頃で、賤ヶ岳へ戻るため大垣を出発したのが午後4時頃でした。
一刻を争う場面で、いったい6時間も何をしていたのか?
同時代の記録には何も残されていませんが、江戸時代の軍記や覚書には割と詳細が記されています。
それを踏まえて楠戸義昭氏の著書『激闘!賤ヶ岳』を参考に当時を再現してみましょう。
秀吉はまず「足に自信のある者50人」を選び、2つのグループに分けました。
そして彼らを先に行かせると、賤ヶ岳までの街道付近に住む人々に、進軍の手伝いをさせたと言います。
◆20人……北国街道脇往還の藤川から先へ走り、沿道の百姓に松明を最低1本ずつ作らせ、道に並べて夜になったら一斉に火を点けさせる
◆30人……長浜領内の百姓すべてに米1升を炊いて握り飯を作らせ、豆1升を煮させ、沿道に台を置いて並べておかせる
言うまでもなく、住人たちにはたんまり恩賞が出ます。

絵・富永商太
さらに江戸時代の逸話集『続武将感状記』には、こんな話も残されました。
加藤清正が30人の兵を連れて、近江中の富裕な農民や商人から金銀米銭を借り集め、5万人分の食糧を用意。
おかげで皆が腹いっぱい食べ、上も下も「こんな自由な軍陣はかつてなかった」と言い合った――そんな、緊迫感に欠けた逸話ではありますが、ともかくこれにて準備は完了。
ついに「美濃大返し」の始まりです。
鎧兜は置いていけ
羽柴軍2万。
そのうち5,000の将兵が大垣城の守備に残され、

大垣城と戸田氏鉄像
残る1万5000に向けて秀吉が宣言します。
これから走って木之本まで戻るぞ! 装備は重いので、すべて陣に置いて行け!
当時の鎧兜は10kgを軽く超えます。身軽なはずの足軽でも、胴丸だけで5kgほど。
ゆえに戦場へ向かう軍勢の速度は速くても時速4kmが精一杯でした。
しかし、その装備がなければどうか?
確かに速く走ることはできるが、いざ戦場へ向かったら、どんな甲冑をつければよいのか?
答えは木之本にありました。
3月から陣を敷いている自分たちの陣地です。
到着した兵たちには、羽柴秀長のいる田上山から武器と武具が配られた――楠戸義昭氏の『激闘!賤ヶ岳』にはそう記されています。
そもそも走って戻った者の多くは、中間(ちゅうげん)や雑人(ぞうにん)といった甲冑をつけない身分の者たちであり、馬に乗った侍大将たちは装備もそのままだったでしょう。
実際に武具を配布された人数はそう多くはなさそうです。
そして午後4時、1万5000の羽柴軍の兵たちは身一つで大垣を出発するのでした。
十三里・52キロを4時間で
ここから先は、同時代の記録に戻ります。
『柴田合戦記』では、この道のりを「三十六町の路、十三里」と記しました。
※『柴田合戦記』は秀吉の御伽衆・大村由己が秀吉の命で書いたもの。勝者側の記録ではありますが同時代の史料であり、賤ヶ岳を伝える記録のなかでは最も信頼度が高いとされます
36町を1里として13里。1里を約4kmで換算すると約52kmですね。
大垣城を出たら、まずは中山道で垂井へ向かい、関ヶ原に出てからは北国街道の脇往還で最終目標地点の木之本へ向かいます。
すべて陸路です。
大垣は水の都と呼ばれるほど水運の発達した土地でしたが、琵琶湖と揖斐川の間には伊吹山地が横たわっていて、木之本までの水路はない……となれば走るしかないんですね。
該当区間を現在のGoogleマップで見ますと、徒歩で約56キロですから、当時の記録とほぼ同じですね。
異なるのは移動時間でしょう。
秀吉本隊は4時間ほどで木之本に着いたとされますが、現代のGoogleマップとの比較とはいえ、3倍以上も速いのは、いくらなんでもありえないのでは?
確かに、この時間には誇張も含まれると思います。
ただ、さほどに速く移動できたのも理由がありそうで、あらためて地図をご覧ください。
そう、この道は秀吉や織田家が、ずっと以前から何度も使っていた道なんですね。
岐阜城
│
長浜城
│
京都
信長が浅井・朝倉と戦うときも、足利義昭を救うために飛び出したときも、すべてはこのルートを通っていた。

絵・富永商太
秀吉にとっても将兵にとっても馴染みの道であり、途中には握り飯や松明もあったとされますから、備中高松城から山崎まで移動した「中国大返し」のときとはワケが違いますね。
「美濃大返し」は地元だったからこそ成功したのかもしれません。
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秀吉軍が、木之本の本陣に着いたのは午後8時頃のことでした。
新暦に直せば6月上旬とはいえ、すでに日没後です。
沿道に並ばせた松明は、効果を発揮していたようですね。
◆出発……4月20日 午後4時頃に大垣を出発
◆到着……同日 午後8時頃に木之本へ到着
◆距離……十三里(約52km)
4時間で52kmは時速13kmになります。
同時代の記録も、この行軍を「古今希有働也」と称えていますが、さすがに数字は操作されているのでは?
42.195kmフルマラソンの世界記録が約2時間ですから、その2倍の4時間とはいえ、1万5000人全員がこなせる記録ではないでしょう。
と、思ったら実際に落伍者は多かったようで、柴田勝家との最終決戦となる4月21日に間に合わなかった者も大勢いました。
地の利と七本槍
そもそも4月21日の決戦を迎えた秀吉の手元には、驚くほど有名武将がいませんでした。
さきほど羽柴軍6万と書きましたが、あれは戦域全体をかき集めた数字であり、実情は以下の通りです。
残っていたのは秀吉や秀長の馬廻衆、そして52キロを走り切った者たち。
それでも羽柴軍が勝てたのは、そもそも賤ヶ岳が彼らにとっては地元(ホーム)だったのも大きいでしょう。
地の利が、合戦や戦術に与える影響は小さくありません。
そして人手が足りなかったことは、若い近習たちに出番を与えることにも繋がります。
加藤清正や福島正則など。

加藤清正(左)と福島正則/wikimedia commons
のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる面々が名を挙げたとされるのは、この日のことでした。
※七本槍が実は「九本槍」だったという話も含めて、秀吉軍の配置については後日あらためて記事にします
なお、賤ヶ岳の裏切り者については、以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2015年3月 洋泉社・歴史新書)



