柴田勝家と家臣団の武将たち

織田家

柴田勝家の家臣団はなぜ崩れた?利家や成政は「直属の武将」ではなかった

大河ドラマ『豊臣兄弟』の賤ヶ岳で、柴田軍はあっけなく崩れました。

鬼柴田と呼ばれた猛将の軍団が、なぜあそこまで脆かったのか。

少なくとも、戦力不足では説明できません。

勝家が率いていたのは、前田利家、佐々成政、そして鬼玄蕃こと佐久間盛政など、織田家の方面軍でも最大級の陣容でした。

ただ、この顔ぶれには一つ、大きな特徴がありました。

利家も成政も、勝家が召し抱えた直属の家臣ではないのです。

信長が付けた与力であり、しかも石高は勝家の直臣を上回る規模で、勝家を監視する目付の役目まで負わされていました。

支えると同時に、監視する――そんな相手を何人も抱えた軍団が、信長の死後どうなったのか。

柴田勝家の肖像画

柴田勝家/wikipediaより引用

勝家が率いた柴田家臣団を確認して参りましょう。

 


軍記物では100人以上いる勝家家臣団

柴田勝家の家臣は、名前だけならたくさん残っています。

軍記物などでは100人以上確認できる。

しかし確実な史料となると、奉行衆や側近、または部将クラスなどに限定されてしまう、と研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で指摘。

要は、文書を出したり受け取ったりする立場の人でないと、記録に残っておりません。

象徴的なのが、拝郷家嘉(はいがい いえよし)でしょう。

『賤ヶ岳合戦図』に描かれた拝郷家嘉

『賤ヶ岳合戦図』に描かれた拝郷家嘉/wikimedia commons

足軽大将として名を知られ、賤ヶ岳でも奮戦したと軍記物に描かれる人物ですが、その他の史料では確認できない。

※「拝郷」は「拝江」の誤読で、読みは「はいがい」だろうとされています

一方、賤ヶ岳で撤退する勝家の身代わりになったことで知られる、小姓頭の毛受勝照は『尋憲記』という同時代の日記に名前が残っています。

同じ『尋憲記』には、勝家の使者として柴田久介、佐久間八右衛門、志水某という名も登場。

使者や取次を務めた者は残り、戦場で暴れた者は消えてしまう。

武名と史料に残るかどうかは別物なんですね。

毛受勝照(落合芳幾作)の浮世絵
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『柴田勝家公始末記』が伝える直臣の石高

では、名前が残っている柴田勝家の家臣たちは、どれくらいの石高規模だったのか。

勝家の出自や家臣団が記され、江戸時代に成立した『柴田勝家公始末記』に記されています。

◆安井左近太夫家清:東郷城主3万石

◆柴田源左衛門尉勝定:安居城主1万石

毛受勝照:近習1万石

◆上村六左衛門:2000石

◆下条勘七:舟橋奉行1200石

◆福岡七左衛門:舟橋奉行1000石

『柴田勝家公始末記』の表では、最大でも3万石です。

後述する与力と比べて圧倒的に知名度は低い。

比較的信頼できるとされる『武家事紀』によると、柴田源左衛門勝定は軍事関係の要職(奉行)にいましたが、一般的によく聞かれる名前でもありません。

また、以下の武将たちは柴田軍の先鋒を日替わりで務めたとされながら、同じく知名度はさほどではないですよね。

・毛受庄介(勝助)

・毛受義左衛門

・原彦二郎(政茂)

・安井左近

・拝郷五左衛門(家嘉)

・徳山五兵衛

柴田勝家家臣団と言えば、上記のような直臣を差し置いて、真っ先に出てくる有名武将がいます。

府中三人衆です。

そう、前田利家と佐々成政、不破光治の三名ですね。

※不破光治は本能寺の変以前に死去しており、賤ヶ岳を戦ったのは後継者の直光となります

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

例えば大河ドラマ『豊臣兄弟』で利家は勝家のことを「おやじ殿」と呼んでいましたが、いったい彼らと勝家はどんな関係だったのか?

柴田家臣団の在り方にも強く影響した、三名と勝家の関わり方を見て参りましょう。

 

利家や成政は家臣ではなく与力

天正三年(1575年)9月、越前を平定した織田信長は、柴田勝家に越前八郡と北庄城を与え、府中と今立・南条二郡の10万石を三人衆に分け与えました。

一人あたり3万3300石。

不破光治は龍門寺城、前田利家は府中城、佐々成政は小丸城を拠点としています。

このとき、もう二人が越前に配置されました。

大野郡の3分の2を与えられた金森長近と、残り3分の1を与えられた原政茂です。

金森長近の肖像画

金森長近/wikipediaより引用

この二人を府中三人衆に加えた五人が勝家の与力となり、まとめて「越前衆」と呼ばれました。

つまり勝家の周囲には、大名クラスが五人も並んでいたことになります。

注目は彼らの立場です。

特に府中三人衆は「勝家の与力大名」であると同時に「勝家の目付役」でもありました。

支えると同時に見張らねばならない複雑な立場であり、信長が三人に与えた掟書も残っています。

【意訳】

越前国のことは、おおむね柴田勝家に任せた。

三人は柴田の目付として二郡を預けるのだから、良いことも悪いことも隠さず報告せよ。また三人の心構えの善し悪しは、柴田のほうから報告させる。

互いに磨き合うよう心得ることが第一である。手心を加えたら処罰する。

【原文】

越前国の儀、多分、柴田覚悟せしめ候、両三人をば柴田目付として、両郡申し付け置くの条、善悪の趣きを私曲なく申し越すべく候、また両三人覚悟の善悪をば柴田方より告げ越すべく候、互いに磨き合い候ように分別専一候、用捨においては曲事たるべき者也

なかなか手厳しい書き方ですよね。

織田家重臣の中では最古参クラスだった柴田勝家と、元赤母衣衆筆頭の前田利家、元黒母衣衆筆頭の佐々成政、西美濃四人衆にも数えられる不破光治

織田家の主要メンバーで互いに見晴らせる――信長が意図していたのは、支え合う組織というより相互監視でした。

先程の石高を思い出してください。

安井家清が3万石で家臣最高であるのに対し、府中三人衆は一人3万3300石です。

安井の3万石は『柴田勝家公始末記』に記された参考程度の史料ではありますが、それが正しければ勝家の直臣筆頭より大身の、直臣ではない武将が脇を固めていたのです。

何かバランスが悪いように感じませんか?

 


佐久間盛政と柴田勝豊は家臣か一族か

柴田勝家の家臣団といえば、もう二人、外せない名前があります。

佐久間盛政と柴田勝豊です。

佐久間盛政(鬼玄蕃)

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用

まずは「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で知られる佐久間盛政。

賤ヶ岳で大岩山砦を落とし、中川清秀を討ち取った猛将であり、勝家の甥にあたります(母が勝家の姉か妹)。

ところが、盛政もまた勝家の直臣ではありません。

信長の直臣であり、勝家に付けられた与力という位置づけであり、血縁である甥ですら勝家が直接抱えた家臣ではなかった。

もちろん姻戚関係ですから、府中三人衆よりも勝家との密着度は強かったと考えられます。

一方、柴田勝豊は、勝家の姉が吉田次兵衛に嫁いで産んだ子です。

こちらも甥で勝家の養子となり、当初は後継者と目されていた人物だけに、越前丸岡城を任される程でした。

さらに佐久間盛政の弟にあたる柴田勝安、保田安政・佐久間勝之ら一族、実子とみられる柴田権六もいました。

養子が複数、甥が複数、そこに実子も成長してくる。

一門は多いのに、与力だったり養子だったりで、血の濃さも立場もなんだかバラバラなのです。

 

織田家最大級軍団のリスク

実際、柴田勝家の家臣団は、織田家の中でも異例の組み合わせでした。

例えば秀吉の羽柴軍と比べると、与力である府中三人衆の権限は大きく、勝家は一国一城の主クラスに命令を出さなければならない体制。

信長は、いわゆる「方面軍」という軍団を発足させていましたが、勝家軍団のように大物武将を抱えていたところは他にありません。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

確かに戦力としては織田家で最強クラスとなります。

しかし、問題は組織力でしょう。

互いに見張り合う立場ですから、勝家と府中三人衆は主従関係というより、同僚に近い感覚が残っていたのではないか?と研究者の和田氏も指摘しています。

これの何がまずいのか。

というと、勝家と団結している間は頼もしい味方である一方、まとまりがなくなれば統制を取るのが難しくなり、戦国時代の“軍”としては弱体化してしまうことです。

要は、仲違いするリスクを抱えているんですね。

実際、柴田勝家の家臣団には“不和の記録”が残されていますので、ここも見ておきましょう。

 

勝家と家臣団のトラブル

柴田勝家の家臣団で有名なのが、養子・柴田勝豊と甥・佐久間盛政の対立です。

こちらは後日、柴田勝豊の記事で詳細を記しますので、本記事では佐々成政と柴田源左衛門尉勝定のケースを見て参りましょう。

◆柴田勝家と佐々成政

天正十年(1582年)、越中富山城を包囲していたときのことでした。

降伏を申し出た籠城衆の扱いをめぐり、勝家と成政の見解が食い違い、紛糾しています。

佐々成政の肖像画

佐々成政/wikipediaより引用

前田利家が兄・安勝に宛てた3月24日付の書状に記録されていて、このときは前田利家の仲裁で収まったといいます。

のちに敵味方に分かれる利家が間に入っているのですから、よほどのことだったのでしょう。

戦時下で気が荒くなる場面では、味方同士でも争い事は起きるものですが、もしも勝家と成政が完全な主従関係であれば成政が引いて問題にはならなかったのでは?

互いに見張り役という関係が、マイナス方向で出た場面と言えそうです。

◆明智光秀のもとへ去った重臣

極めつけが柴田源左衛門尉勝定でしょう。

先ほど石高表にも出てきた1万石の重臣であり、北庄城代だったともいわれる、柴田家臣団の重要人物です。

それが、柴田家を出奔して明智光秀に仕えたされるのですから穏やかではない。

明智光秀の肖像画

明智光秀/wikimedia commons

勝定は妻子を伴い、百余騎を率いて近江坂本へ。

しかも「本能寺の変」や「山崎の戦い」では明智軍として参陣しているのですから、「勝家にとっては手痛い離反であった」と評される出来事でした。

※天正七年(1579年)、越前の安居から雪深い越中の木舟へ転封を命じられて拒否し、改易になったとも伝わりますが、信頼度は高くないとされています

 

なぜ賤ヶ岳では機能しなかったのか

羽柴軍や明智軍などではあまり聞かれない家臣団の不和。

なぜ鬼柴田と畏怖される柴田勝家のもとで、そのような事が起きるのか。

要因として、もう一つ考えられるのが「勝家軍団の序列がはっきりしていなかった」ことです。

例えば、養子とされる勝豊と勝政の序列がはっきりせず、誰が二番手なのか決まっていない。

一方で猛将として知られる佐久間盛政が重用されたりしている。

養子が二人、甥が複数、実子も成長してきて、さらにそこへ直臣よりも石高の大きい与力が三人も参加。

一つ一つの駒は強力でも、家臣同士の繋がりがいまいち見えて来ないのですね。

この辺、子飼い・馬廻衆中心の秀吉家臣団とは構造が異なり、それが後の賤ヶ岳の結果に繋がったことは否定しきれないでしょう。

『賤ヶ嶽大合戦の図』

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣)/wikipediaより引用

 

柴田勝家・家臣団まとめ

柴田勝家の家臣団を整理すると、こうなります。

◆軍記物には100名以上の家臣の名前がある

→確実な史料では奉行・側近・部将クラスのみ

◆直臣の最高石高3万石

→府中三人衆は一人3万3300石で与力のほうが上だった

◆三人と勝家は相互監視

→信長に命じられていた

◆大物の与力を抱えた軍団は織田家で勝家だけ

→織田家で最大クラスの軍団ではあった

◆不和の記録がいくつも残る

→養子二人の序列も定まっていなかった

いかがでしょう?

一国一城の主クラスが三人も付き、猛将・佐久間盛政がいて越前一国を押さえている。

柴田勝家の家臣団は、数字の上では織田家最強クラスです。

上段(柴田勝家・豊臣秀吉)と下段(滝川一益・丹羽長秀)の肖像画

上段(柴田勝家・豊臣秀吉)と下段(滝川一益・丹羽長秀)/wikimedia commons

しかし、同時に組織力に難がありました。

織田信長という絶対的君主がいる間は全員が信長を見て、組織力に綻びは出ませんが、本能寺で消えた瞬間、勝家の軍団には「元信長の家臣だった者同士」が残されたわけです。

賤ヶ岳で前田利家が戦場を去り、佐久間盛政に属していた金森長近・原政茂・徳山秀現も、これといった活躍が確認されないまま、戦後はそろって赦免されている。

その一因は、強固な主従関係が成立しきっていなかった点にあるのでしょう。

前田利家や佐々成政だけでなく、金森長近は飛騨一国の大名となり、原政茂も3万石を得て大名になるなど、能力そのものに疑いはありません。

結果、柴田勝家の家臣団は滅んでも、駒たちは強く生き残ったのでした。

なお、賤ヶ岳の戦いで柴田軍と羽柴軍がどんな陣を配置したのか?という点については以下の関連記事をご覧ください。

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画
史上最大の築城戦とされる賤ヶ岳で羽柴軍と柴田軍はどんな陣を配置した?

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大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題となった勝家とお市の方の飛び降りについては以下の記事へ。

『豊臣兄弟』柴田勝家とお市の方イメージイラスト
勝家とお市の方は本当に天守から飛び降りたのか?豊臣兄弟第33回史実解説

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戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


【参考文献】

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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