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豊臣兄弟感想あらすじ

勝家とお市の方は本当に天守から飛び降りたのか?豊臣兄弟第33回史実解説

舞台は天正十一年(1583年)4月、大河ドラマ『豊臣兄弟』第33回で柴田勝家の北庄城が落城しました。

羽柴軍との賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が越前へ敗走。

お市の方と共に天守から飛び降りという衝撃的な最期を迎えたわけですが、あのシーンには多くの方が疑問を抱かれたでしょう。

史実の勝家とお市の方もあのような最期を迎えたのか?

実際はどうだったのか?

『豊臣兄弟』柴田勝家とお市の方飛び降りイメージイラスト

第33回放送の内容を史実面から振り返ってみましょう。

 


あらすじ

まずは手短にドラマのあらすじを押さえておきます。

賤ヶ岳で総崩れとなった柴田勝家は越前の北庄城へ撤退。

「勝家はまだ生きておる!北庄城を落とすのじゃ!」

秀吉は即座に追撃を命じますが、弟の秀長(小一郎)は降伏を促す使者を送ってはどうかと進言します。

それでも相手は鬼柴田だけに、秀吉の覚悟は決まっていました。

城を囲まれた勝家は、三人の娘たちと共に城を出るよう市に促すも、お市は「私も共に逝きまする……」と引かず、涙を堪えながら勝家もそれを受け入れるしかありません。

勝家、辛い、辛すぎるぞ……。

『豊臣兄弟』柴田勝家イメージイラスト

城を囲まれたお市は茶々、初、江の浅井三姉妹に向きあい、織田信長から授かった守り刀を茶々に差し出しました。

「そなたは生きて、妹たちを守るのじゃ」

浅井三姉妹が城を出たことを確認した秀吉は、総攻撃の合図を出します。

前田利家が先鋒となり、北庄城へ一斉になだれ込む羽柴軍。

あとはもう柴田勝家と柴田軍がどんな意地を見せるか、武人としてどんな最期を遂げるのか、そしてお市の方がどんな決断をするのか。

「私は先に参ります」

お市の方が喉元に懐刀をあて、今まさに果てよう!とすると、勝家が彼女の懐刀を握りしめ、土壇場で制止します。

「いま一度、あらがいましょうぞ。勝家が最期までお守りいたします!」

勝家はそう言ってお市の方の手を取ると、追手の兵たちをなぎ倒しながら天守へ。

しかし、そこへ藤堂高虎、そして羽柴秀長がやってくると、いよいよ覚悟を決めるしかありません。

「よく見よ、これが戦じゃ!」

勝家はそう言って、北庄城の天守から二人で飛び降りるのでした。

『豊臣兄弟』柴田勝家とお市の方飛び降りイメージイラスト

戦いが終わると、浅井三姉妹は寧々に預けられ、織田信孝は尾張へ送られ自害となりました。

そして三法師を自らの庇護下に置いた秀吉。

表向きは織田信雄の補佐役として、しかし独断で戦後処理を進めており、もはや天下の主導権は握ったも同然であり、家臣たちの前で堂々と宣言をします。

「わしが天下人になる!」

秀吉は実際にこんなことを言ったのか?

それも踏まえて第33回の内容を史実面から見て参りましょう!

 


前田利家は本当に先鋒を務めたのか

昨日まで味方だった柴田勝家の北庄城を前田利家が率先して攻め入る。

勝家のことを「おやじ殿」と慕っていた利家に先鋒を任せるなんて、あまりに酷ではないか?

そんな場面ですが史実です。

賤ヶ岳の戦い翌日の4月22日、秀吉は越前府中へ陣を進め、前田利家、徳山秀現、不破河内守らを降伏させました。

研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で、その条件をこう記しています。

利家は、秀吉軍から攻撃されることを覚悟していたが、旧知の堀秀政が使者となって話し合いを持てたこともあり、北庄城攻めの先鋒をすることで降伏が認められた。

本来なら攻められても仕方ない状況だったところ、勝家を討つための先鋒になることで赦免されたんですね。

堀秀政は、織田信長の側近武将として知られる勇将であり、利家とも秀吉とも通じた間柄でした。

ただ、利家としてもすんなり応じたわけでもないようです。

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

利家は勝家に人質として娘の摩阿姫を出しており、当初は「勝家を裏切ることはできない」と拒否したと記す史料もあります。

その人質が脱出した(勝家が解放した)という報せを受けて、ようやく降伏したとか。

「おやじ殿」と慕い、娘を助けてくれた勝家を攻めることは、利家としても凄まじく辛い場面であったでしょう(摩阿姫は後に秀吉の別妻となっています

前田利家と柴田勝家の肖像画
前田利家は柴田勝家を「おやじ殿」と呼んだのか?知られざる2人の複雑な関係

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なお、『川角太閤記』には「秀吉が単身乗り込んで利家父子を懐柔した」とありますが、これは「小説のような内容であり、信用するに値しない」と評価されています。

では、利家を先鋒とする羽柴軍は、どのように勝家の北庄城を攻めたか?

 

北庄城の包囲戦はわずか4日

賤ヶ岳の攻防が終わり、越前に戻った柴田勝家と、それを追いかける羽柴秀吉。

すでに柴田軍の士気は喪失していたからでしょうか。

鬼柴田の柴田勝家が北庄城に戻るも、その攻防は驚くほど短期間で決着しています。

日付と共に流れを見てみましょう。

◆4月21日:賤ヶ岳で柴田軍が壊滅し、勝家は北庄城へ

◆4月22日:秀吉が府中へ進出すると、前田利家らが降伏

◆4月23日:羽柴軍が北庄城へ攻め寄せる

◆4月24日:午前4時に総攻撃を始め午前9時ごろに勝家は自害

賤ヶ岳の敗戦から、わずか4日。

北庄城には留守部隊が配置されていて、敗残兵が加われば勢いを盛り返す恐れがある——そう見た秀吉は、間髪入れずに総攻撃を命じたのです。

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons

そしてここが興味深いところでもありますが、ドラマの中で秀長が「勝家へ降伏の使者を送ってはどうか?」と秀吉に進言していましたよね。

実はこれと似た動きが、史実にもありました。

秀吉の側近が勝家の助命を提案するも、勝家を恐れる秀吉が却下したというのです。

それが秀長だったかどうかまでは不明。

ただ、秀吉の周囲に「助けてはどうか」という声があり、それを秀吉が退けたという構図はドラマの創作ではないのですね。

北庄城を攻め滅ぼすことが決まった以上、気になるのが勝家とお市の方の最期ですね。

天守から飛び降りなんてあり得るのか?

放送後に物議を醸していたこの場面を史実から見て参りましょう。

 


北庄城の天守は九重と記された

まずは北庄城から考察。

そもそも天守から飛び降りて、人が死ねる高さがあったのか?

秀吉が小早川隆景に宛てた書状に、こう記されています。

【意訳】北庄城は石垣を高く構築し、天守は九重の高層であり、そこへ勝家は二百人ほどで籠城した。

これは秀吉自身が書いたものですから、同時代の記録です。

一方、軍記物ではもう少し盛られていて、例えば『豊臣記』ではこの天守を「安土城を凌ぐ九重」とし、「石の柱、鉄の扉」という堅牢な造りだったと記しています。

北庄城

現在は福井城として知られる北庄城(北ノ庄城)

さらに『豊臣記』では、天守の周りに多数の楼閣が立ち並び、廊下で連結され、そこにも精兵300人余りが籠もっていて、弓・鉄砲・長道具と共に敵を待ち受けていた、とも。

籠城の人数については、秀吉の書状が「二百ばかり」、軍記物の『柴田合戦記』『豊臣記』が「三百余」と記述。

力攻めをするには、なかなか難しい状況でした。

なんせ相手は精鋭ですから、大軍で攻め寄せたところで味方同士の武器で死傷者が増えるかもしれない。

そう判断した秀吉は、羽柴軍から勇士数百人を選抜し、手槍と刀だけを持たせて、北庄城の天守へ突撃させたのです。

『柴田合戦記』では、この場面を「手鑓・打物ばかりにて天守の内に攻め入る」と書いています。

天守という建物の中で、槍と刀だけの白兵戦。

ドラマで勝家が次々に敵をなぎ倒していましたが、この記述を踏まえて劇中でも再現されたのかもしれません。

なお、九重の天守という規模は誇張の可能性も指摘されております。

あくまで想定ながら30~40メートルの高さだとして、飛び降りた場合に即死となるかどうか、判断が難しい状況です。

特に、途中に障害物があると、結果は変わってくるでしょう。

いったい勝家とお市の方は、そこで飛び降りなどしたのか?

実際はどんな最期を迎えたのか?

 

諸説ある勝家とお市の最期

柴田勝家とお市の方の最期。

戦国時代でも屈指の劇的なシーンであり、注目度も高いですが、諸説あって定まらないというのが現状です。

ただし、結論から申しますと「天守から飛び降りた」という記録はありません。

要はドラマの創作ですが、果たして、武人中の武人である柴田勝家がそんな最期を選んだのか。

現在残されている記録を一つずつ見て参りましょう。

 

戦後すぐに記された秀吉の書状

まず最も当時に近い記録が秀吉の書状です。

4月26日付、つまり落城の2日後に記された書状にこうあります。

【意訳】天守へ上がった柴田勝家は、妻子以下を刺殺して自らも切腹、24日の午前9時ごろに果てた。

【原文】天守へ取上、妻子以下刺殺、切腹、廿四日辰下剋相果候

妻子を刺殺して、自らも切腹したことが記されています。

飛び降りたのなら、そう書くはずなのに、そうした記録は無し。

武士のケジメとして切腹で果てる、というのは勝家が選ぶ最も自然な最期ではないでしょうか。

柴田勝家の肖像画

柴田勝家/wikipediaより引用

 

1ヶ月後のより詳しい秀吉書状

上記の書状よりも詳しく記されているのが、5月15日付で小早川隆景に宛てた秀吉の書状です(『毛利文書』所収)。

こちらは合戦から3週間以上たっており、多少の脚色はあるでしょう。

ただ当時の雰囲気がよく出ていて、要約するとこうです。

――精鋭部隊に刀剣のみを持たせて天守へ突撃させたところ、勝家は日頃から武の鍛錬を欠かさない武士だけに、七度まで切って出て、羽柴軍と戦った。

しかし最終的には防ぎきれず、天守の九重目まで上がると、秀吉軍に向かって声をかけた。

【意訳】勝家はただ今腹を切る! 敵の中にも心ある侍がいるなら、前後を静めて見物し、この名を遠く異国まで伝えてほしい。

【原文】勝家、唯今腹を切るの条、敵中にも心ある侍は、前後を鎮め見物し、名を九夷八蛮までは相伝うべき由

武人らしい最期を迎えるにあたり、心ある侍は涙を流し、鎧の袖を濡らし、あたりはひっそり静まり返った。

そして勝家は妻子をはじめ一族を刺殺し、最も親しい80人余りが切腹した——。

なかなか物語っぽい話ではありますが、秀吉自身が記した書状ですから信憑性は低くはないでしょう。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

なお、勝家の自害が午前9時ごろで全員が果てたのが午後3時頃となっていて6時間の開きがありますが、天守に火がかけられたため、確認が済んだ時刻なのかもしれません。

 

宣教師ルイス・フロイスの書簡

そしてもう一つ、外から見た記録があります。

宣教師ルイス・フロイスの書簡。

ルイス・フロイスのイメージイラスト

こちらは籠城側の様子まで記されていて、なかなか生々しい記録が記されています。

――城を包囲した敵に向けて、城内からは銃を一発も撃たなかった。

それどころか、城外の兵士たちは妙なことに驚く。

城の中からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくる。

最期の宴が開かれていたのでしょう。

そして勝家は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると、

誰よりも早く、信長の姉妹で数ヶ月前に娶った妻・お市の方とその他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己れの腹を十字に切り、その場で息絶えた。

他の武士たちも同じように、まず自分の妻子を殺してから後を追った――。

フロイスの書簡には、さらに驚くべき一節が続きます。

羽柴やその他の敵に城内で起こったことを知らせるため、柴田は死ぬ前に話術に長けた身分ある老女を選んだ。

そして城内での出来事のいっさいを目撃させた後、城の裏門から出て敵に事の次第を詳しく語らせるよう命じた。

自分たちの最期を見届けさせ、それを外部へ伝えるため、話の上手な老女を選んだというのです。

もしも、この老女が語ったのであれば信憑性は高いだろう、というのが研究者の見方であり、実際、女房衆で生き残った者が勝家の最期を伝えたという記録もあります。

いずれにせよ、何もかも投げ出すような飛び降りとは、まるで逆と言いましょうか。

次は、お市の方から、最期を見てみましょう。

 

自分で残ると決めたお市の方

ドラマでは、お市の方が死のうとするのを勝家が止めていました。

実際はどうだったのか。

お市の方の肖像画

お市の方/wikimedia commons

『賤箇嶽記』に基づく記述を見てみましょう。

勝家は、お市に対して「信長の妹であり、縁戚も多く、秀吉も丁重に扱ってくれるので落ち延びる」ように諭した。

しかし、お市はそれを拒絶し、ともに自害することを希望した。

このとき勝家は、信長から拝領した天下の名物の道具類を広間から書院まで飾り立て、股肱の家臣80余人を集めて最後の酒宴を開いたとされます。

フロイスが聞いた「陽気な歌声」の正体は、おそらくこれでしょう。

そして自害の前夜、二人は歌を詠み交わしたと伝わります。

【お市】さらぬだにうちぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな

【勝家】夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居に上げよ山郭公

※辞世は伝承であり、読みやすく整えられた形で伝わっています

勝家とお市が夫婦だった期間は半年ほど。

フロイスが「数ヶ月前に娶った妻」と書いているとおりで、清須会議のあとに結ばれ、この春に終わっています。

 

敵将を褒めた秀吉

最後にもう一つ。

『賤箇嶽記』によれば、秀吉は北庄城を見下ろせる愛宕山に布陣し、城内を遠望していました。

城の中には老人や女性しかいない。

それなのに旗指物で城を飾り立てている。

その差配を見て、秀吉は近習にこう言ったといいます。

【意訳】武将とは、こうあるべきものだ。

【原文】武将はかくぞ嗜むべきものなり

なお、ドラマでは秀長が天守へ上がり、二人の最期を見届けていましたが、「この間、秀長の動向は摑めない」というのが研究者の見解です。

二次史料に「北庄城攻略後は丸岡城を攻略した」とあるぐらい。

現場にいたとしても、目立った活躍はなかったのかもしれません。

そして第33回放送の最後のシーンでは、月代を剃り上げた秀吉が天下人宣言をしました。

いかにも秀吉っぽい場面ですが、実際にそんなことをしたのか?見てみましょう。

 

秀吉は本当に天下人宣言をしたのか

天下人宣言によって家臣たちが湧き上がるのはいかにもドラマっぽい演出。

そう思われるところですが、実は秀吉、書状で似たことを書いています。

賤ヶ岳の勝利直後、こう記しているのです。

【意訳】日本の治まりは、今この時である。

しかも、この一文が記された前後の文脈がなかなか不遜なものでして。

柴田勝家を猛追したことで羽柴軍にも犠牲者が出たが、日本の治まりは今この時だと決断したのだから、兵士を討死させても自分の不覚にはならない——そう記しているのですね。

天下取りのためなら、犠牲が出ても仕方ないと言わんばかり。

別の書状では、さらに大きく出ています。

【意訳】日本の治まりは、源頼朝の時代以来、これ以上のものがあっただろうか(いや、ないだろう)。

最初の武家政権を建てた源頼朝を引き合いに出し、それに匹敵する治まりだと誇示しているわけです。

源頼朝・足利直義の肖像画

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikimedia commons

実際、天下取りは言葉だけでは終わりませんでした。

8月1日付で、近江・河内・丹波・播磨・山城・摂津において大量の知行宛行状(領地を与える権利書)を発給。

さらに大坂城の築城に着手します。

もはや完全な天下人のように振る舞う秀吉のことを家臣や他の武士たちがどう見ていたか?

直接語る史料は多くありませんが、この知行宛行の規模を見れば、少なくとも「ついていけば恩賞がある(利がある)」ことは伝わったでしょう。

宴で沸き立つ、というのはあながち大げさなものでもないかもしれません。

※なお、秀吉がいつから「天下を意識していたのか?」という点については以下に関連記事がございます

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画
秀吉はいつから「天下」を狙っていたのか|本能寺・清須会議・賤ヶ岳の権力掌握

続きを見る

 

まとめ

大河ドラマ『豊臣兄弟』第33回放送を史実面から整理しておきましょう。

◆前田利家の北庄城攻め

→先鋒になったのは史実であり、それが降伏の条件だった

◆柴田勝家の助命を嘆願する声

→秀吉の周囲から進言されたが、これを秀吉が退けているのも史実

◆勝家とお市が天守から飛び降り

→近い記録は一つもなく、実際はお市の方を刺殺し、勝家は切腹で最期を迎える

◆お市の方が逃げるように諭す勝家

→史実もドラマもそうであり、お市の方が自ら死を選んでいる

◆浅井三姉妹の預け先

→諸説あるが、寧々と記した史料はない

※こちらは後日別記事にて詳細を記します

◆千利休と羽柴秀長の出会い

→→そうした記録は見当たらないが、賤ヶ岳の3年後、大友宗麟が国元へ「内々のことは利休、公のことは秀長」と書き送っている

※こちらは後日別記事にて詳細を記します

◆秀吉の天下人宣言

→家臣の前での宣言は不明だが、書状に「日本の治まりは今この時」と高らかに記している

天守から飛び降りというのは確かに話題になります。

しかし、柴田勝家のように誇り高き武人の最期としていかがなものでしょうか。

秀吉との戦に負け、無念極まりないところで、本当はお市の方を逃がそうとしていた。

それでも彼女の意志を尊重して共に最期を迎えている。

そして武士として自害して果てた。

飛び降りというのは確かに話題になり、実際、放送後は物議を醸しているようですが、そんなことで話題にならんでも……というのが率直な印象です。

山口馬木也さん演じる勝家、めちゃくちゃ渋くて、ただただカッコ良かったじゃないですか。

餅を喉に詰まらせて死んでしまった武田信玄やら、裏切り者として描かれてしまった中川清秀に続き、なんともモヤモヤとしたものが残る、勇将の最期となってしまいました。

なお、前田利家と柴田勝家の関係や、賤ヶ岳の戦いで勝家を戦場から無事に逃したとされる毛受勝照の別記事などが以下にありますので、よろしければ併せてご覧ください。

前田利家と柴田勝家の肖像画
前田利家は柴田勝家を「おやじ殿」と呼んだのか?知られざる2人の複雑な関係

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毛受勝照(落合芳幾作)の浮世絵
柴田勝家の身代わりとなった毛受勝照とは?主君を逃がした馬印「金の御幣」伝説

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戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


【参考文献】

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川和二十六

歴史学科を卒業。大河ドラマ『豊臣兄弟』レビューおよび歴史エンタメ記事を担当。歴史記事以外でも様々な分野のライティングや編集業務もこなしている。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001138406

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