大河ドラマ『豊臣兄弟』の第32回放送の舞台は賤ヶ岳。
羽柴秀吉
vs
柴田勝家
という織田家最大の内紛が天正十一年(1583年)4月に勃発したわけですが、劇中で最も気になったのはやはり「前田利家の寝返り」でしょう。
勝家のことを「親父殿」と慕っていた利家は、最終的に秀吉を選ぶ。
歯ぎしりしながらの苦渋の決断は、果たして実際はどんな状況だったのか?

史実面から確認してみましょう!
あらすじ
まずは手短に、ドラマのあらすじだけ押さえておきますね。
織田家の名代(みょうだい・当主代行)となるため三法師を抱えた織田信孝。
これに対し秀吉は信長次男の織田信雄と共に岐阜城を取り囲みます。
信雄と信孝は兄弟なのに、なぜああも憎しみ合うのか?

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用
実は信孝は以前から信雄より一段低い扱いを受けていて、四国討伐あたりから巻き返しを図っているような状況でした。
これ以上は本筋から外れてしまいますので、詳細は以下の記事をご覧いただくとして、
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織田信雄と信孝はなぜ争った?兄が弟を切腹へ追い込むまでの深すぎる確執
続きを見る
北陸の深い雪に封じられた柴田勝家は、秀吉に囲まれた信孝を助けることはできず、結局信孝は、三法師だけでなく人質まで取られて秀吉に降伏するしかありません。
そんな状況に激怒する柴田勝家。
お市の方にも背中を押されて、春になったら勢力を挽回すべく出陣を決意するのですが、それより一歩先に動いていたのが秀吉でした。
お忍びで前田利家のもとへやってきて、豪姫やまつのことを話します。
豪姫とは天正二年(1574年)に生まれた利家とまつの娘で、子供のいない秀吉の養子となっていました。
つまり羽柴家と前田家は以前から姻戚関係があり、なかなか親密な関係だったというのが自然な見方だと思うのですが、本作の利家はここまで勝家寄りの人物像として描かれていますね。
そんな利家に秀吉は宣言します。
「ワシは天下人になる」
だから又左(利家)も手助けしてくれ、とのことで利家も表面上は激怒しながら、実際は心を揺さぶられます。
その直後、柴田勝家との宴会で「おやじ殿が天下人になってくれ!」と懇願するも、勝家は「わしは織田家の家老、天下人は三法師様じゃ!」と突き放され、利家はどことなく寂しげな表情を浮かべるのです。
ドラマ上では、ここで利家が裏切りを決意したのでしょう。
そして天正十一年(1583年)4月に「賤ヶ岳の戦い」が勃発。
当初は両軍が互いに睨み合い戦線は膠着しながら、織田信孝の蜂起によって一気に動き始めます。

柴田勝家と豊臣秀吉の肖像画/wikimedia commons
佐久間盛政が攻め込み、中川清秀が秀吉を裏切り、羽柴軍が窮地に立たされるかと思いきや、前田利家軍が動かず、結局、大垣から引き返した秀吉軍によって柴田軍が逆に窮地に追い込まれます。
利家の裏切りに気づいた勝家は、前田利家との対決に勝利。
しかし首までは取らず、戦場へ向かいます。
茫然自失の利家は、中川清秀の首を取って秀吉のもとへ向かい、賤ヶ岳の戦いは次週へと引き継がれるのでした。
今回の放送を見終わって感じたことは「賤ヶ岳の戦いの全体像がよくわからん!」でした。
以下のテーマを史実面から見て参りましょう。
・賤ヶ岳の戦いの全体像
・史実の前田利家は柴田勝家を裏切ったのか
・豪姫、まつ、寧々の関係は?
・中川清秀は賤ヶ岳の戦いで秀吉を裏切った?
・佐久間盛政は加藤清正との一騎打ちで逃げ出した?
では、まず戦いの流れから押さえて参りましょう!
賤ヶ岳の戦いの全体像
羽柴秀吉の攻勢に焦る柴田勝家が動き始めたのは天正十一年(1583年)3月。
北近江へ侵攻すると、前田利家ら先行部隊が余呉・木之本方面で放火や攻撃を行い、4月5日には勝家本陣も出撃して秀吉方の拠点を攻めました。
この動きを聞いた秀吉も急いで北近江へ。
両軍は約1キロの距離を保ちながら睨み合い、そのまま互いを牽制するように動かなくなります。

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣)/wikipediaより引用
と、ここで膠着を破ったのが、美濃の織田信孝でした。
いったんは秀吉に降伏していた信孝が4月上旬に再び挙兵したため、同月16日、秀吉が2万の軍勢で大垣へ向けて出発すると、その留守を衝くために勝家軍が動き出します。
4月20日、佐久間盛政が大岩山砦の中川清秀を急襲して討ち取ったのです。
ドラマでは裏切り者となっていた中川清秀は、鬼玄蕃と呼ばれる猛将・佐久間盛政に攻められ、敗死していたんですね。
もちろん秀吉も黙ってはいません。
なんと、その翌日の21日には引き返し、最終的に柴田軍と激突の末に勝利。
24日には北庄城を取り囲み、柴田勝家とお市の方を自害させています。
あまりの急展開に驚かれるかもしれませんが、この間に「前田利家の動き」などあって、柴田軍は一気に崩れていました。
利家の動きは後述するとして、そもそも両軍の規模はどれほどだったのか?
『豊臣記』では柴田軍を5万余としています。
しかし研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で「敵方の人数を多く見積もる常套手段」だと指摘しており、秀吉自身の書状からすると実際は柴田軍は約3万ほどが妥当だとか。
羽柴軍は、そのうち5000余を討ち取ったというから大勝利と言えるでしょう。
柴田軍といえば、織田家随一の武闘派イメージですので、あまりに呆気ない結果という印象になるかもしれません。
しかし、これも当然の結果かもしれません。
柴田軍で積極的に戦ったのは、佐久間盛政・安政・勝安の兄弟と、勝家の馬廻衆くらいとされ、大半の武将がはなから本気ではなかった。
要は、大軍同士の総力戦ではなく、一部だけの衝突とも言えるんですね。
それでも勝利は勝利。
秀吉は戦後、小早川隆景宛の書状で「源頼朝以来これほどの天下の治まりはない」という趣旨の強い自負を示しています。
とにかく柴田勝家に勝利すれば、残る織田信雄も織田信孝も大した能力はなく、秀吉が天下人を意識するのも自然なことかもしれません。
そこで気になってくるのが、ドラマの中で「天下人」を意識していた前田利家でしょう。
利家は一体どういう対応をしたのか?
前田利家は本当に裏切ったのか
結論から申し上げると、前田利家の裏切りを決定づける史料はありません。
まず、合戦の1ヶ月ほど前まで、利家は勝家方として通常通りに働き、そのことは同時代の書状からはっきり確認できます。
天正十一年(1583年)3月16日、家臣の富田景政に宛てた利家の書状(『富田文書』)が残っているのです。
3月7日に余呉・木之本へ出兵して放火すると、10日にも出陣して放火。
その後は柳瀬に陣を据え、16日時点では椿坂に在陣しています。意気揚々とは言えないにせよ、柴田陣営の一員として従軍していました。

前田利家/wikipediaより引用
問題は合戦当日、利家の具体的行動を示す確実な史料が乏しいことでしょう。
勝家の動向を示す証拠はなく、それだけに戦後に噂が立ちました。
◆『当代記』……丹羽長秀と前田利家が秀吉に味方して柴田方へ攻めかかったので、柴田方は敗北した
◆『豊鑑』……利家は昔から秀吉と親しかったため、秀吉に内通していた
いかにもドラマっぽい話で、それだけに研究者たちもそろって否定的な見方をしています。
前田家研究の大西泰正氏は著書『前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説』の中で、利家はこの敗戦で横山長隆をはじめ多くの家臣を失っており、秀吉から手心を加えられた気配がまったくない、と指摘しているのです。
和田裕弘氏も内通説には否定的である一方、前田軍が「積極的に戦ったとは思えない」と考察しています。
要は、事前の内通というより、戦況が崩れた局面で積極的に踏みとどまらず、撤退へ傾いたと見るのが穏当でしょう。
にも関わらず、なぜ今なお利家は賤ヶ岳の戦いで裏切ったように描かれるのか。
信長の娘婿を囲い込みたい秀吉
賤ヶ岳の戦いは、前田利家にとって負け戦です。
しかし、その戦後に加賀国の北二郡(河北郡・石川郡)が加増されました。
負けたのに、領地が増えている。
一体なぜ?
そんな不可解さから逆算して「利家が戦後に恩賞を貰えたのは勝家を裏切って秀吉についたからだ!」という噂が生まれたと指摘されています。
まぁ、普通に考えればそう思いたくなりますよね。
もしも、そうでないとしたら、明確な理由が知りたい。
なぜ利家の領地が増えたのか。
この疑問に対して、研究者の大西氏や岩沢氏は「越前より北を織田家の姻族である丹羽・前田両家で固める――そんな秀吉の構想があった」と指摘しています。

絵・富永商太
丹羽長秀の子・丹羽長重も、前田利家の子・前田利長も、共に織田信長の娘婿。
しかも、当時存命だった信長の娘婿5人
・前田利長
・蒲生氏郷
・筒井定次
・丹羽長重
・中川秀政
のうち、利長以外はすべて秀吉陣営にいました。
賤ヶ岳の戦いは、そもそも信長の跡目争いから始まった合戦ですから、一人でも織田の親族を多く取り込んだ方が有利になる。
そこで秀吉が前田家を厚遇したのは、裏切りへの見返りではなく「信長の姻族を確保するためだった」というわけですね。
ちなみに『川角太閤記』には、秀吉が単身で府中城に乗り込み、利家父子を口説き落としたという話があります。
しかし『村井重頼覚書』によると、府中城への使者は堀秀政が務めており、秀吉のエピソードはあくまでフィクションだと考えられています。
前田利家と羽柴秀吉については、両者を結んだ、もっと確実な存在がいます。
豪姫です。
豪姫、まつ、寧々の関係は?
ドラマでも触れられていた豪姫(1574〜1634年)は、前田利家と正室・まつの四女。
秀吉の養女となり、後に豊臣五大老の一人・宇喜多秀家に嫁いだ女性です。
養女になった時期はハッキリしませんが、かなり早い段階から秀吉のもとで育てられていたと思われます。
天正五年(1577年)から同十年頃の秀吉の書状に、豪姫と思しき記述が残されているのです。
賤ヶ岳の戦い後、三女の摩阿こと加賀殿も秀吉のもとへ渡っています。
その経緯については、利家が降伏時に人質として差し出したとする見方と、もともと勝家方の人質として北庄にいた摩阿が落城後に秀吉へ引き取られたとする見方があります。
これが何だかモヤモヤすると申しましょうか。
後に彼女は秀吉の妻となるのです。
このことからも利家が「戦功を立てた味方」ではなく「降伏した敗軍の将」だったことが明らかであり、利家が秀吉に内通していなかった証拠の一つとも言えるかもしれません。
ちなみに、当時のまつと寧々(ねね)の関係については不明です。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用
寧々は姫路に呼ばれることもなく長浜に置かれたままで、福田千鶴氏の著書『豊臣家の女たち』では「秀吉に対する気持ちが冷めていった時期」と指摘しています。
なんせ今後の秀吉は、前田摩阿だけでなく、茶々や京極龍といった若い女性を次々と妻に迎えていくわけで。
寧々にとって前田家は、娘を預かる関係であると同時に、夫の女性関係の一部でもあり、なかなか複雑な状況だったことは間違いないでしょう。
中川清秀は秀吉を裏切ったのか
中川清秀は秀吉を裏切ったのか?
というとこれは完全なドラマの創作であり、実際は大岩山砦で佐久間盛政の急襲を受け、戦って討たれています。
しかも、その戦いぶりが立派でした。

中川清秀/wikipediaより引用
清秀も、この合戦を天下分け目と自覚しており、無様な戦いをすれば生涯の不覚になると覚悟して、自軍に「退くな」と命じて砦から出撃。
精兵5~60騎を率いて佐久間軍と激突すると、一時は敵を押し返したともされます。
しかし、佐久間盛政も「鬼玄蕃」と称される猛将ですから、損害を出しながら猛進し返し、ついに清秀を討ち取ったのです。
中川清秀は、信長からも秀吉からも破格の評価を受けていた武将なのですが、なぜかドラマでは裏切り者とされ、可哀想ですよね。
では、賤ヶ岳に裏切り者はいなかったのか?
というと、います。山路正国(やまじ まさくに)です。
佐久間盛政のもとへ走った人物で、勝家はこの正国から秀吉軍の情報を得て、奇襲を決断。
劇中の中川清秀は、この山路の裏切りを負わされてしまったのでしょう。
なお、寝返りを疑われた武将はもう一人います。
岩崎山砦を守っていた高山右近です。
右近は、これといった抵抗を見せずに敗走したため、勝家方に寝返ったという見方が出ており、『多聞院日記』には秀吉軍が右近の高槻城を攻撃するという噂まで書き留められています。
佐久間盛政と加藤清正は一騎打ちしたのか
ドラマの中では、加藤清正が佐久間盛政と一対一の決闘。
清正に舐められたようなまま盛政が逃げ出しておりましたが、これは史実ではありません。
盛政は前述の通り、武勇を知られた人物であり、清正と対決したとして知られるのが前述の山路正国です。
楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』によれば、清水谷で遭遇した二人は槍を合わせ、清正がスキを見て組みつきます。
そのまま斜面を上になり下になりして、二、三十間も転がり落ちると、最後は清正が馬乗りになって首を掻き、とどめを刺したといいます。
浮世絵にもなっています。

山路正国を組み討ちする加藤清正(楊洲周延作)/wikimedia commons
ついでに「賤ヶ岳の七本槍」についても、一点だけ。
大村由己『天正記』の「柴田合戦記」が挙げているのは、実は**九人**です。おなじみの七人に、桜井左吉と石河一光が加わっています。
では、なぜ九人が七人になったのか。そもそも「七本槍」という呼び名は、いつ生まれたのか。
後日あらためて記事にしたいと思います。
まとめ
第32回の疑問を整理しておきましょう。
①賤ヶ岳の全体像
実態は織田家を二分する総力戦というより、柴田軍(勝家・佐久間盛政)と羽柴軍の激突であり、大半の武将は乗り気ではなかった
②前田利家の裏切り
負けたのに加増されたことから生まれた噂であり、利家は敗軍の将としての扱いもされている
③豪姫
早くから秀吉のもとにいたと目されるが、養女になった時期は不明で、新たに人質に出されたのは三女の摩阿
④中川清秀
裏切り者どころか大岩山で奮戦した殊勲者であり、討死している
※実際に寝返ったのは山路正国
⑤佐久間盛政と加藤清正の一騎打ち
清正が組み討ったとして有名なのは山路正国
こうして見ると、前田利家はこの戦いでなかなか損な役回りを引き受けさせられていますね。
負けた側にいて、家臣を大勢失って、娘を人質に出して降伏した。
それでも領地が増えたばかりに、今なお「裏切り者」とされ、ドラマでもそう描かれています。
次回はいよいよ北庄城で勝家とお市の方の最期が描かれます。
果たしてどうなるか。もしかしたら本作最大の盛り上がりともなるかもしれませんね。
なお、秀吉と利家の関係については以下の関連記事を併せてご覧いただければ幸いです。
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前田利家は本当に秀吉の親友だったのか?史実でたどる両者の関係
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【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)
- 大西泰正『前田利家・利長―創られた「加賀百万石」伝説』(2019年4月 平凡社)
- 楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』(2002年6月 毎日新聞社)
- 福田千鶴『豊臣家の女たち』(2025年10月 岩波書店・岩波新書)
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(2019年11月 KADOKAWA・角川新書)


