大河ドラマ『豊臣兄弟』の第7回放送は、秀吉の出世の大きなキッカケとなった「美濃攻略」がテーマ。
伝説的なエピソード「墨俣一夜城」ですね。
秀吉の片腕としてお馴染み、蜂須賀小六(→蜂須賀正勝の生涯)も登場するわけですが、同時に気になったのが前野長康でしょう。
いったいどんな人物なのか?
今回は、墨俣一夜城と川並衆と共に前野長康の実像に迫りながらレビューを進めたいと思います!
→ 前野長康とは何者か|蜂須賀小六と共に豊臣秀吉を支えた側近武将の生涯
小六と長康は義兄弟の契り?
前野長康の話の前に、まずはドラマの流れから確認。
第7回放送は、以下のようにストーリーが流れていました。
①秀吉と寧々のドタバタ結婚式
②柴田勝家が墨俣攻略失敗で負傷アイタタタ
③前野長康と蜂須賀小六の再会はいきなりバトル
④直がメンタル不安で発熱(白石聖さん綺麗すぎ)
⑤ついに川並衆の協力ゲット!で斎藤軍に勝利
ご覧の通り、メインは秀吉による「川並衆」の調略であり、そのキーマンとなったのが蜂須賀小六であり、さらにはその義兄弟とされる前野長康でした。

彼らはなぜ深い関係であると記されたのか?
実際はそうだったのか?
残念ながら、前野長康の出自や初期の頃の活動は「確実に史実である」とは言い切れません。
というのも小六や長康が義兄弟であることや、墨俣で活躍したことは『武功夜話』という文書の記録であり、文書そのものが史実認定できないとされています。
むろん途中から二人の活動は明らかになっていきます。
しかし、墨俣城やその頃の話は、あくまで「断定できない」という前提で読み進めていただくとして、前野長康の話を進めましょう。
当初は岩倉織田氏に仕える
前野長康は、最初から織田家に仕えていました。
生まれは大永八年(1528年)で、父の前野宗康は、岩倉織田氏(織田伊勢守家)三奉行の一人だったと伝わります。
岩倉織田氏は本来、信長を輩出した織田弾正忠家の主筋に当たる家です。
それが信長の祖父・織田信定や父・織田信秀らの台頭により、いつしか立場は逆転。
永禄元年(1558年)に信長が岩倉城へ攻め込んだとき、前野長康もすでにその配下にいたとされます。
ドラマの中で蜂須賀小六が「織田家になびいた裏切り者が!」とキレていましたが、実は最初から織田家の家臣だったのですね。
では、前野長康はいつから蜂須賀小六と義兄弟の契りを交わしていたのか。
川並衆
残念ながら、二人が接近した経緯や時期は不明です。
彼らが率いていた「川並衆」というのも『武功夜話』だけに記された言葉で、他の史料からは読み取れません。
では、実在しなかったのか?
というと、おそらくそんなことはなく、当時の河川は重要な流通・交通手段でしたので、その利権や業務に携わっている者は全国の至るところにいました。
ゆえに蜂須賀小六や前野長康ら、土豪とされる者たちが、美濃と尾張の国境を流れる木曽川流域で生業を営むとしても何ら不思議ではありません。
歴史学者の呉座勇一氏も、著書『真説 豊臣兄弟とその一族(幻冬舎)』の中で、豊臣秀吉が「川並衆」と同じ働きをする水運ネットワークを利用していた可能性を指摘しています。
当時、実際に使われていなかった言葉だとしても、蜂須賀小六や前野長康らの集団を表現する方法としては的確なのでしょう。
ゆえに以降も「川並衆」という表現で進めさせていただくとして、他にどんなメンバーがいたか?というと、例えば『豊臣兄弟』の劇中にも出てきた稲田種元もその一人。
彼は、前野長康の姉妹(どちらか)を妻にしているという話もあり、本物の義兄弟かもしれません。
話がややこしくなってしまうので、ドラマでは割愛されたでしょう。
いずれにせよ木曽川流域に根ざしていた土豪や国衆らが川並衆のメンバーだったと考えられます。
👉️参照:別記事「川並衆とは何者か」

川並衆の武力
ドラマの中で蜂須賀小六は「大量の木材を積んで木曽川の急流をくだるなんて危険すぎる!」と秀吉に告げていました。
さらには「自分たちにしか出来ない!」とも続けましたが、あながち強がりではありません。
川並衆の業務をもう少し見てみますと、彼らは普段の流通・交通業務に加え、関所からの通行料収入も得ていたのでは?ということも考えられるのです。
河川は重要な交通手段。
中世日本は、全国の至るところで道路に関所が設置されていましたが、水の上でも同様で、船主はそれを支払いながら物や人を運んでいました。
「んなもん払ってられるかよ!」
そんな風に強がれば、関所で物資を奪われ、最悪、殺されてしまう。
ゆえに川並衆のように武力のある者たちの利権となっていて、木曽川の下流に別の集団も関所を設置していたとなれば、そこを怪しげな大量物資と共にスンナリ通るには蜂須賀などの“顔パス”が必要となりましょう。
上記はあくまで想像の話ですが、ともかく、そんな武力を持っていた川並衆だからこそ、チャレンジできるのが墨俣一夜城の築城でした。
墨俣一夜城
ネタバレになってしまいますが、ドラマではこの先どう描かれるか不明ですし、ここまで来たら触れないわけにはいきません。
前野長康もまた蜂須賀小六と共に参加したとされる、この墨俣一夜城。
ドラマでも説明のあったように、上流で柱や梁を事前に準備しておき、現場では組み立てるだけ――ということで秀吉が成功させたことになっています。
しかし、今ではご存知の方も多いように、これはあくまで創作。
『太閤記』をはじめ様々な物語等でどんどん話がデカくなり、

『絵本太閤記』木下藤吉郎 洲の股に砦を築く/国立公文書館
極めつけが『武功夜話』でした。
昭和の戦後に発見されたこの文書により、墨俣一夜城は史実である!とセンセーショナルに広まりましたが、他の史料からは確認できず、現在では以下のように話がまとまっています。
・墨俣一夜城のように一夜で建てた城はない
・しかし、墨俣近辺での砦や戦闘はあった
・秀吉も美濃尾張の国境沿いで砦を守備した
『豊臣兄弟』の第5~6回放送で鵜沼城の調略が描かれたように、当時、秀吉は美濃尾張国境沿いの調略で大いに活躍し、それが出世のキッカケとなっています。
永禄八年(1565年)には、秀吉の名が初めて適切な史料にも登場し、その活躍が認められるのです。
ゆえに川並衆の存在や、蜂須賀小六、あるいは前野長康もドラマで注目されるのでしょう。
実際の働きは不明ながら、前野長康が自身の土地勘と人脈を活かしながら、秀吉の手助けをした可能性は高い。
要は、支店(現場)の営業マンですね。
秀吉の与力から家臣へ
こうして見ると、前野長康は決して目立つ存在ではありません。
しかし、戦国時代において、本当に重要なのは彼らのような「地域に根を張った武士」でした。
現実は、戦国ゲームのように、戦争を仕掛けて国まるごと奪えるわけではなく、一つずつ地道に切り崩していく。
後に豊臣秀吉が播磨を平定するときも、黒田官兵衛のチカラを借りて、周囲の国衆を少しずつ切り従えていったのは大河ドラマ『軍師官兵衛』でも描かれました。
前野長康が活躍した美濃攻略も同様。
斎藤道三・義龍・龍興の三代続いた斎藤氏が支配する美濃は、家臣団の結束も強く、桶狭間の戦いに勝利して勢いバツグンだった信長も、何度か攻め込んで痛い目に遭っています。
そこで東美濃(鵜沼城など)の地道な調略に加えて、墨俣エリアの確保に注力したのです。
先ほど、前野長康は、織田家に仕える家臣だと申しました。
蜂須賀小六も同様で、当初は、豊臣秀吉の家臣だったわけではありません。
しかし、秀吉の与力としてこうした戦功を重ねていき、さらに近江から上洛へと織田家が拡大していくにつれ、秀吉の家臣のようになっていったと考えられます。
時代がかなり先へ飛びますが、天正五年(1577年)8月27日に開かれた津田宗及の茶会で、前野長康は「筑前(秀吉)内衆」と記録されています。
そして勃発したのが天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変でした。
秀次事件の余波で切腹へ
本能寺の変で主君を失った前野長康。
その後は秀吉に付き従い、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い、あるいは四国征伐に九州征伐、小田原征伐へとほとんどの合戦で戦功を挙げ、秀吉にも評価されたと言います。
例えば天正十三年(1585年)四国征伐の後は、豊臣秀長の旧領を引き継ぎ、但馬出石で5万7000石の大名となっています。
残念ながらその翌天正十四年(1586年)に、義兄弟であった蜂須賀小六を失ってしまい、秀吉最古参の家臣となりました。
それが良かったのか、どうか……。
皆さんご存知の通り、将来的に豊臣政権は破綻します。
天正十九年(1591年)に豊臣秀長を失ったのがその一因ともされ、さらに悲劇となったのが文禄四年(1595年)の秀次事件です。
秀吉の姉・とも(瑞竜院・日秀尼)の息子である豊臣秀次が自害したのです。

豊臣秀次/wikimedia commons
豊臣秀頼が生まれたことから立場を失った秀次が自ら死んだとか、秀吉に追い込まれたとか、様々な原因が挙げられますが、本当に酷いことになったのは自害後。
秀次の数多いる妻子まで処刑されたほか、前野長康も秀次を弁護したということで秀吉の怒りを買い、後日、切腹したのです。
なぜ前野長康まで死なねばならなかったのか。
政権樹立に粉骨砕身した最古参の武将を追い込むなんて、政権内の人心を荒廃させるだけ。
そんなこと秀吉がわからないはずがないのに……今もって真相は不明とされます。
大沢次郎左衛門も秀次事件で
大河ドラマ『豊臣兄弟』では前回の第6回放送までに大沢次郎左衛門がクローズアップされました。
次の第7回で、前野長康が注目されたことは偶然ではないのかもしれません。
というのも大沢次郎左衛門もまた豊臣秀次の下につけられ、事件後、追放処分という憂き目に遭っているのです。
絶大な権力者に気に入られれば、自身の立場も優遇される――その一方で不興を買えば途端にドン底へ落とされる。
前野長康は11万石にまで大身出世を果たしていますが、それが命を失う危険性と隣り合わせだとすれば、日頃はどれだけ窮屈であったか。
逆に、多くの者たちの信用を得ていた徳川家康が、その後、紆余曲折を経て徳川政権を樹立できたのも当然のことであったと合点がいくかもしれません。
信長が理不尽すぎる
今回の大河ドラマ『豊臣兄弟』第7回放送では、墨俣一夜城に失敗した柴田勝家が、這々の体で戻って来ると、織田信長から「大口を叩いて何事か!」と謹慎処分にされていました。
この信長は、第6回放送で有無を言わさず大沢次郎左衛門を殺そうとしていたし、その際は、兄・秀吉の命と天秤にかけて「侍大将にしてやってもいいぞ」と秀長に悪魔の餌をぶら下げてもいました。
仮に芝居だったとしても、あまりに理不尽ではありませんか。

確かに『麒麟がくる』の信長も、非常に不気味で冷酷な面があり、特に後半は顕著でしたが、美濃攻略や上洛の時点では失敗に対して理解があったように思えます。
手抜きをする家臣を罰するならまだしも、難しいことに挑戦して失敗したときにも罰せられたのでは、今の信長の下では誰もトライできないはず。
それは組織を萎縮させるだけで、まだ小国の織田家にとっていいことではないはず。
なのになぜ、信長はあのような決断を下すのか?
というと、墨俣一夜城を含めた美濃攻略は、秀吉の大手柄が確定事項なので、他の者たちを下げ、秀吉を持ち上げるため?とも思えてきました。
今のところ私が仕えたい主人は大沢次郎左衛門と蜂須賀小六です。
幸い秀吉の物語なので、小六の活躍はまだ期待できるはず。
前野長康と共に頑張ってください!
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
柴裕之/かみゆ歴史編集部『太閤記解剖図鑑』(2025年11月 エクスナレッジ)
清水克行『室町は今日もハードボイルド』(2023年12月 新潮社)
