東大寺大仏殿を焼き、織田信長を二度裏切り、最後は名物茶釜「平蜘蛛」と共に爆死する――。
大河ドラマ『豊臣兄弟』で竹中直人さんが演じる松永久秀と言えば、かつては“梟雄”イメージで語られがちな人物でした。
しかし、実際はどうか?
久秀の悪行は、後世の軍記物や講談によって派手に盛られたものであり、そもそもは三好政権に仕えて畿内政治の実務を担う、非常に有能な武将でした。
特に大きなこだわりを持っていたのが大和国(現在の奈良県)です。
久秀にとって大和とは、ようやく築き上げた自分の足場であり、織田信長とは上洛以前から誼を通じて大和での立場を保とうとしました。
しかし久秀は天正五年(1577年)、突如、織田家に反旗を翻します。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
一体なぜ?
一度目の離反は三好勢と共に
松永久秀は、もともと三好長慶の重臣として頭角を現した人物です。
当時の畿内を支配した長慶のもとで畿内政治に深く関わり、大和へ勢力を広げていた。
このころ久秀が大和に築いた多聞山城は、単なる軍事拠点ではありません。
京都・大和・河内・摂津をにらむ政治的な要衝であり、軍事拠点であると同時に久秀の文化的志向も反映された城でした。
ところが三好長慶の死後、三好家中は大きく揺らぎました。
永禄八年(1565年)5月、久秀の息子・松永久通や三好勢らによって、将軍・足利義輝が殺害される「永禄の変」が勃発しました。
永禄十年(1567年)10月には大和の東大寺で三好三人衆と衝突し、大仏殿を焼失してしまうという、前代未聞のトラブルが起きていました。
双方の戦闘で出火した火種が運悪く東大寺大仏殿に飛び移り、焼け落ちたのです。

東大寺盧舎那仏坐像
詳細は別記事「東大寺大仏殿の戦い1567年」にまとめてあります。
事件から約1年後の永禄十一年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しました。
三好三人衆と対立していた久秀は、信長と結ぶことで大和での立場を保とうとし、名物茶器を献上するだけではなく、娘を人質にも出しています。
この時点の久秀は、信長に対して協力的でした。
問題は筒井順慶です。
同じく大和に根を張る順慶は、久秀にとって大和支配をめぐる宿敵でしたが、信長と義昭が赦免するだけでなく、重用し始めたのです。
ただでさえ大和は、伝統的に巨大寺院の権力が強く、統治の難しい国。
久秀にとっては支配の根底が揺らぎかねない事態でした。
そして元亀二年(1571年)、三好三人衆と和睦をした久秀は、信長から離れて一度目の離反に踏み切ります。
筒井順慶の復権によって大和支配を脅かされ、何かと追い込まれた末の行動でした。
一度は許されたが、苦い赦免だった
松永久秀は一度信長に背きました。では完全に見限られたのか。
というと、そうではありません。
元亀四年(1573年)に入ってから武田信玄が病没し、足利義昭が追放され、反信長勢力が揺らぐと、久秀は信長に降伏します。
信長は久秀を許しました。
多聞山城を明け渡すことで赦免されたとされています。

大和国多聞城諸国古城之図「浅野文庫」所蔵/wikimedia commons
信長は、裏切った者を必ず滅ぼすことはなく、久秀も許されました。
畿内や大和のように権力構造の複雑な地域では、現地の事情に通じた人物が必要であり、三好政権以来の人脈があり、茶の湯や名物の世界にも通じる久秀は有能で使い道もある。
ゆえに許されたのですが、同時に久秀にとっては苦い赦免となります。
多聞山城は久秀の大和支配の象徴であり、それを明け渡すことは独自の力を削られることを意味しました。
信長のもとで生き残る代わりに、かつてのような自由は失われていく――二度目の離反への種火は残されたままだったと言えるかもしれません。
筒井との因縁
松永久秀の大和へのこだわり、行動を理解するには筒井順慶との関係が外せません。
久秀は、三好一族の勢力を背景に大和へ入りました。
一方の筒井氏は、もともと大和に根を張る在地勢力の代表格であり、順慶にしてみれば久秀は完全によそ者であり、二人が大和支配でぶつかるのは当然と言えました。
上洛にあたり、信長は最初、久秀を利用しました。
しかし、やがて筒井順慶も取り込みます。
信長にしてみれば、久秀だけに大和を任せるのは危ない。
ならば筒井で保険をかけつつ、久秀の権力が強くなりすぎないように牽制をしておこう――というのは織田政権にとって合理的な判断とも言えます。
むろん、久秀にしてみれば、たまったものではなく、天正四年(1576年)には、筒井順慶が大和守護に起用されてしまいます。

筒井順慶/wikimedia commons
長年争ってきた宿敵が大和支配の中心に据えられてしまうのです。
久秀の居場所は、どんどん狭くなっていきます。
そして天正五年(1577年)8月、久秀は再び信長に背きました。
二度目の蜂起で信貴山城に籠る
天正五年(1577年)当時、信長は石山本願寺・毛利氏・上杉謙信ら「第三次信長包囲網」の対応を迫られ、決して盤石な状況ではありませんでした。
久秀もそうした情勢を意識していた可能性はあります。

上杉謙信/wikimedia commons
しかし、二度目の離反を考えるうえでより重要なのは、前年から進められていた多聞山城の解体でしょう。
実は前年から取り壊しが始まっていた多聞山城の解体が天正五年(1577年)の夏になって完了を迎えていました。
多聞山城を壊す。
しかも筒井順慶と一緒に。
単なる城の処分ではなく、大和支配の象徴として久秀が築き上げたものを処分させられ、そこまで追い込まれた末の二度目の離反とも思われます。
もちろん、第三次信長包囲網の動きも意識していたでしょう。
毛利氏と連携する石山本願寺や、軍神・上杉謙信の動きもあって状況不安定な織田家を見て、久秀は一縷の望みをかけたのかもしれません。
とはいえ厳しい状況です。
強大だった武田家も信玄を失って長篠の戦いでは大敗しており、浅井や朝倉はすでに滅亡、足利義昭も京都を追われ、三好勢もほとんど勢いは残っておりません。
久秀が信貴山城に籠もっても、救援にやってくる味方はいない。
それでも久秀は城を生きて明け渡すことはなかった。
つまり最初から死を覚悟していたように思えますが、では一体どんな最期を迎えたのか?
巷でよく話題になる「自爆した」というのは本当か?
その詳細については明日(5/24)公開の「松永久秀は本当に平蜘蛛と共に爆死したの?信貴山城の戦いと最期の真相」をご覧ください。
参考文献
- 天野忠幸編『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
- 岡田正人編著『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
