磐覚イメージイラスト

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豊臣兄弟感想あらすじ

秀長を脅す興福寺の僧侶・磐覚は実在したのか?豊臣兄弟第37回史実解説

大河ドラマ『豊臣兄弟』第37回で最もインパクト強烈だったのが磐覚(ばんかく)でしょう。

坂口涼太郎さんが演じる興福寺の僧侶で、まるで呪いのように調伏(ちょうぶく)を唱えたかと思えば、検地を告げる羽柴秀長に対して脅しをかける。

挙げ句の果てには、秀長の部下を賊に襲わせるなどやりたい放題。

あんな悪僧、実在したのか?

というわけで、第37回放送で注目された磐覚や、大和における秀長の検地などを史実面から振り返ってみましょう!

磐覚イメージイラスト

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なお、今回退場となってしまった蜂須賀正勝については、晩年に大仕事をやってのけてからの最期を本記事末に掲載しておりますので、よろしければ併せてご覧ください。

◆豊臣兄弟37回 三行あらすじ

四国攻めを終えた羽柴秀吉は大々的な国替えを実行。大和国を治めていた筒井定次を体よく追い出すと、弟の羽柴秀長を派遣した。

大和国は、興福寺など寺社勢力の強大なエリアであり、検地を実行しようとする秀長の前に立ちはだかったのが興福寺の磐覚である。

しかし権別当・兼深の登場により、興福寺と秀長の話はまとまり、検地は無事に行われた。

 


磐覚の名は史料に見当たらず

視聴者の心をざわつかせて仕方なかった磐覚は、史実ではどんな僧侶だったのか?

というと、これが実在を確認できません。

豊臣秀長や興福寺を扱った書籍にも、奈良の中世を扱う事典にも、当時の大和を記録した日記にも名はない。

番組の紹介では「興福寺一乗院の坊官(在俗の僧侶)」とされていました。

坊官とは、門跡寺院に仕えて実務を担当する僧のことであり、妻帯も許されていた立場ですので、設定としてはリアルを踏まえたものでしょう。

しかし、磐覚そのものについては創作と見るのが自然です。

磐覚イメージイラスト

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いっぽう、コトを収めるために登場した兼深(けんしん・けんじん)はどうか?

これが非常にクセモノでして……。

 

信長と天皇を衝突させた兼深

赤星昇一郎さんが演じていた兼深。

落ち着きがあって話がわかるキャラクターというか、いかにも人徳者然として描かれていましたね。

ドラマでは興福寺一乗院の権別当とされていましたが、この人物の経歴のほうが、磐覚よりもよっぽどヤバい。

大寺院の“業”が垣間見える事例として確認しておきましょう。

話は天正四年(1576年)までさかのぼり、織田信長まで関わってきます。

兼深イメージイラスト

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先に、興福寺の仕組みを押さえておきますと、寺全体のトップが別当(権別当は二番手)であり、天皇が任命します。

・別当→トップ(天皇が任命)

・権別当→別当の補佐で二番手

一方、寺の中には一乗院・大乗院といった格式の高い院があり、そのトップを門跡と呼びました。

あの足利義昭も、将軍になる前は一乗院の門跡だったことが大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれていましたね。

・一乗院(かつては足利義昭が門跡)

・大乗院

つまり門跡たちが別当の座を争うという構造であり、天正四年(1576年)当時、別当だったのが光実でした。

この光実が、交替時期になっても一向にその座を譲ろうとせず、痺れを切らした兼深が正親町天皇へ直訴し、「光実は辞退すべし」という勅命を引き出すことに成功します。

しかし、そこに大乗院から横槍が入りました。

まだ28才と若い兼深は、学僧の資格試験における「探題」という役職を経ていないので、別当になる資格はない――そう突っ込まれたのです。

兼深は、ここで黙って引き下がるタイプではありません。

探題を経ないまま別当となった先例をいくつも並べ立て抵抗を続けていると、そこへ本願寺攻めの最中だった織田信長が上洛してきます。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

双方の言い分を聞いた信長は「寺の法に従うべきだ」として対立候補の尋円を推し、その日のうちに安土へ帰っていました。

ここで終われば、ただの人事の揉め事で済んだでしょう。

しかし、そうはなりません。

正親町天皇が兼深の就任を決めてしまうのです。

一体どうなってしまうのか。

 


信長を激怒させるもしぶとい兼深

驚いた信長が、大納言の烏丸光康と飛鳥井雅教へ送りつけたのが以下の書状です。

【意訳】これでは禁裏の権威に傷がつきます。そうなると信長も同じように面目を失います。

【参考】『虚像の織田信長』収録:秦野裕介「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」

天皇への批判とも取れる、かなり踏み込んだ信長の発言。

激怒していた信長は、同時に丹羽長秀と滝川一益を上洛させると、兼深の追放と、取り次ぎを担った朝廷の奉行衆4人の処罰を決めてしまいました。

すると正親町天皇の息子である誠仁親王から

「後悔なさっておいでです」

という趣旨の返事が届き、朝廷側が一歩引いたことがうかがえます。

正親町天皇の肖像画

正親町天皇/wikimedia commons

かくして兼深は興福寺を追われてしまうのです。

しかし、この男がとにかくしぶとい。

翌年には早くも帰寺を許され、天正十三年(1585年)には、ついに念願だった別当の座へ就いています。

秀長が大和へ入ったのと、ちょうど同じ年のことです。

そんな秀長に対して、興福寺はどう出たのか? 実際に抵抗したのか?

 

2日で1万石が消えた

羽柴秀長が郡山城へ入ったのは天正十三年(1585年)9月3日のことでした。

このとき興福寺からは一乗院・大乗院という二つの門跡をはじめ、東大寺の僧から町人にいたるまで、奈良じゅうが総出で出迎えたと記録に残っています。

数は、寺僧だけで九十人あまり。

本当は秀長の大和入りなど望んでいなかったであろうに、いかにも面従腹背が得意な人物像が浮かんできますね。

では、このとき興福寺一乗院のトップは誰だったのか?

尊勢という門跡であり、案の定、秀長に対する歓迎ムードが長く続くことはありませんでした。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

9月24日、秀長は奈良に対して、屋敷から取っている税の明細を提出するよう命じます。

寺社が握っていた収入源をまず数字で把握しようとしたわけで、ドラマで「検地」と呼ばれていた作業の一環でしょう。

そして秀吉と検地といえば、歴史の授業でもお馴染み「太閤検地」という言葉がうかんできますね。

これは一体なんのことか?

 

検地はどう行われた?

検地とは田畑の面積と、そこから穫れる稲などの量を調べ、石高という一つの数字に直す――ざっくり言ってしまえば収穫高の数値化です。

秀吉が全国規模で行ったため「太閤検地」と呼ばれました。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

しかしこれ、一見、地味な事務仕事ですが、やられる側にとっては一大事。

それまで誰がどの土地からどれだけ取っているか、長い間の慣習や複雑な権利の上に成り立っていて、詳細不明な部分が多かったのです。

要は、いくらでもゴマカシがきいたんですね。

検地などされると、取り分が少なくなってしまう。

しかも田畑の持ち主にとっては厄介なことに、数字を決めるのは取り立てる側でした。

研究者の黒田基樹氏が著書『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』の中で指摘しておりますように、提出された書類をもとに石高を確定していくやり方を「指出検地」と呼びます。

秀長が大和へ入ったのは秋の収穫期だったため、まずは手っ取り早いこの方法で行い、実際に土地を測って年貢を決める「丈量検地」は翌年へ持ち越されました。

なお、ドラマで秀長の家臣として登場した小堀正次こそ検地の専門家です。

大和入りの直前にあたる閏八月9日には、紀伊の百姓へ向け「検地のため正次を派遣するので指示に従うように」という命令が出されています。

秀長家臣のなかでも検地のスペシャリストというべき人材だった――というのが、研究者・和田裕弘氏の評価です。

そんな検地のプロたちが、興福寺の石高を決めました。

一体いくらになったのか?

 

秀長による大和での検地

羽柴秀長の大和入り後、興福寺の寺領はまず以下のように定められました。

◆天正十三年(1585年)9月27日

寺領を2万6000石と規定。

うち5000石は寺院修造料にあて、残る2万1000石を寺領とする。

一般的に武家は1万石から大名とされますので、2万6000石は決して小さくありません。

しかし……。

◆天正十三年(1585年)9月29日

1万石を削減して1万1205石とする。

わずか2日で1万石が削られています。

しかも、これで終わりではありません。

興福寺五重塔

興福寺五重塔

翌天正十四年(1586年)になると、土地を実測する「丈量検地」がおこなわれ、その結果と興福寺の数字が食い違ったため、10月18日に再び交渉が行われました。

結果、寺領は1万5000石で決着。

最初の指出検地から、ほぼ1年が経過したことになりますね。

実測してみると数字が食い違い、寺領は3800石ほど戻された計算になります。

ちなみにこの検地、秀長はかなり厳格に臨んだようで、翌年8月1日には、検地奉行へ「礼」をした庄屋37人が牢に入れられました。

「礼」とはお察しの通り、袖の下(付け届け)のことであり、数字に手心を加えてもらおうとしたことが浮かんできます。

現代でいえば所得や売上をごまかし、脱税を図ろうというわけで罰則が与えられたんですね。

むろん取られる方も必死ですから、ドラマでは賊を雇い、妨害工作が行われたことが描かれてました。

そんなことが実際あったのか?

 

検地に刃向かった者は、本当にいた

史実でも、検地への武力抵抗は起きていました。

ただし、確認できるのは大和のお隣、紀伊の熊野です。

紀伊でも太閤検地が始まり、土地の調査と権利関係の精査が進められていたと、研究者の平山優氏が著書『豊臣秀長 秀吉を支えた生涯』の中で説明しています。

もちろん、黙って見ている者ばかりでありません。

反発する動きが各地で起こり、熊野では秀吉による材木の徴発への不満まで重なって、牢人衆が指導する北山一揆が勃発。

鎮静化のため、天正十四年(1586年)8月、秀長が軍勢を率いて熊野へと向かっています。

山が深く、地の利は完全に相手側にあったため、秀長軍は多くの損害を出し、大和の宇陀松山城主だった重臣の伊藤掃部助が、この戦いで命を落としました。

9月中旬にいったんは鎮圧するも、完全な制圧までには至っていません。

天正十六年(1588年)に検地反対一揆が起こると、今度は家臣の吉川平助を派遣したうえで、藤堂高虎に赤木城を築かせています。

ドラマでも賊を退治したのが高虎だったのは、こうした史実も踏まえているのかもしれませんね。

藤堂高虎の肖像画

藤堂高虎/wikipediaより引用

北山がようやく落ちたのは、それから1年後、天正十七年(1589年)のことでした。

ちなみにドラマで秀長の家臣として出てきた吉川平助は後に、秀吉の手で処刑されます。

しかも、そのとばっちりで秀長のほうが「天下の面目」を失うことになるのですが、詳細はまた後日。

他にも第37回では桑山重晴や小堀正次など、秀長の家臣が立て続けに顔を出していましたが、実際はどんな顔ぶれが揃っていたのか?

以下の関連記事にまとめてありますので、よろしければ後ほどご覧ください。

羽柴秀長の肖像画
羽柴秀長の家臣団|大和入り後の筆頭家老は藤堂高虎ではなかった

続きを見る

 

興福寺をさらに追い込む秀長

興福寺にとっての痛手は、寺領だけではありませんでした。

大和へ入って1か月ほどたった天正十三年(1585年)10月、秀長は奈良中の「一切の商売」を止め、これからは郡山で売買せよと触れを出しました。

止められたのは各種の日用品の売買だけでなく、質物を介した金銭の貸し借りにまで及びます。

狙いは各寺院の財布(財源)でしょう。

秀長は、奈良の経済そのものを郡山へ移そうとし、興福寺が握っていた収入の仕組みにも手をつけていきます。

その辺りは第38回放送のテーマとなりそうですので、次回あらためて触れたいと思います。

なお、郡山城の改修工事については、大量の墓石や石仏が使われたことも描かれていましたね。

郡山城図

郡山城図/wikimedia commons

ドラマで藤堂高虎が石仏を運んでいたのは、これを踏まえたものですが、その数と今も残る「逆さ地蔵」についても後日あらためて別の記事で注目させていただきます。

秀長の大和統治は、その後も穏やかではありませんので、最後に少しだけ見ておきましょう。

 

二転三転する興福寺とのやりとり

大納言に叙任された辺りから、羽柴秀長は少しずつ病がちになっていきます。

天正十七年(1589年)、病状はかなり深刻なものとなり、興福寺の大乗院門跡と一乗院門跡で病気平癒の祈祷がおこなわれましたが、効き目は現れませんでした。

同年12月には秀長の家臣から奈良の寺社へ祈祷を頼む書状が届きます。

春日大社の社家・禰宜に500石、興福寺に200石、東大寺に100石を渡す、という条件つきのものでした。

そんな状況で、興福寺へある話が伝わってきました。

秀長が快復しそうなので、2万6000石の寺領を返す――4年前に一度示され、わずか2日後で消えたあの数字です。

しかし年末に届いた実際の連絡では結局1万5000石とされていました。

最初に示された2万6000石には、とうとう最後まで戻っていません。

秀長が亡くなったのは、それから1年あまりたった天正十九年(1591年)正月22日のこと。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

奈良では、この6年間をどう見ていたのか?

ドラマでは新名基浩さんが演じた俊英(しゅんえい)という僧も登場していましたね。

当時の奈良には英俊という実在の僧がいて、劇中のモデルとしているのか不明ですが、彼の書いた『多聞院日記』において多くの出来事が今日に伝えられています。

そこには秀長が入ってきた頃のことが「郡山右往左往也」と記されていました。

寺社の先行きが見えない不安を右往左往と現したのでしょう。

寺の内情を知らない国主が来たせいで混乱したとのことで「国主不案内故」という言葉も残っています。

そして秀長の大和支配は、後に「豊臣秀長卿南都押領(秀長が南都=奈良を奪い取った)」とまで評されました。

ドラマの中で磐覚は「この者たちはいつか居なくなる、寺はずっと残る」と言っていました。

創作された僧の、創作されたセリフに過ぎません。

しかし、秀長の四苦八苦と興福寺側の記録を並べてみると、あの薄気味悪い笑みが何を見ていたのかは、なんとなく分かる気もしてきます。

なお、前述のとおり蜂須賀正勝の最期については以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

蜂須賀正勝の浮世絵
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大和を追われた筒井定次については哀しい最期が記録に残されています。

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秀吉に大和を追われ徳川に切腹させられた筒井定次|東軍についたのになぜ?

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    • この記事を書いた人
    • 最新記事

    川和二十六

    歴史学科を卒業。大河ドラマ『豊臣兄弟』レビューおよび歴史エンタメ記事を担当。歴史記事以外でも様々な分野のライティングや編集業務もこなしている。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001138406

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