徳川四天王の肖像画

徳川四天王/wikimedia commons

徳川家

徳川四天王で最も家康に評価されたのは誰だ?関ヶ原後に18万石を得た男

徳川家康の天下取りを支えた徳川四天王。

・酒井忠次
・本多忠勝
・榊原康政
・井伊直政

彼らの中で主君・徳川家康から最も高く評価されたのは誰だったのか?

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikimedia commons

武勇で選ぶなら真っ先に本多忠勝が浮かぶでしょうし、家臣団の筆頭なら酒井忠次。

戦場と政務を担った榊原康政も捨てがたいですし、赤備えを率いた井伊直政も外せない。

いったい誰にすればエエんじゃ!

ということで今回は、後世の人気や逸話ではなく、

・与えられた石高
・任された本拠地
・合戦や外交での役割
・最終的な官位

という実際の処遇から、家康による四天王の評価を比べてみましょう。

 


徳川家臣団の筆頭は酒井忠次だった

徳川家康の独立から勢力拡大期まで、家臣団の筆頭に立っていたのは酒井忠次です。

家康より15才年長の忠次。

その妻・碓井姫は家康の叔母にあたり、酒井家は徳川家と姻戚関係にありました。

忠次は、永禄年間に吉田城を任されると、武田氏や上杉氏との外交にも関わり、姉川の戦いや長篠の戦いでは軍勢を率いています。

酒井忠次の肖像画

酒井忠次/wikipediaより引用

大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である柴裕之氏は著書『徳川家康』の中で「譜代重臣の筆頭」と位置づけ、東三河の国衆や松平一族の統制と軍事指揮を任されたと説明。

若い家康を軍事と外交の両面から支えた、宿老中の宿老だったのですね。

では官位ではどうだったのか?

天正十四年(1586年)には従四位下・左衛門督に叙任され、四天王の中でも早い時期に高い位階を得ており、この時点では忠次が筆頭だったと考えてよいでしょう。

しかし忠次は天正十六年(1588年)に隠居します。

家康が関東へ移った天正十八年(1590年)には、嫡男の酒井家次が下総臼井3万7千石を与えられましたが、すでに本人は第一線を退いていました。

後の三人より石高が少ないからといって、忠次の評価まで低かったとは言い切れません。

比較する時期が異なるからであり、次に本多忠勝と榊原康政を見てみましょう。

 

本多忠勝と榊原康政は揃って10万石

天正十八年(1590年)、家康が関東へ移されると、本多忠勝と榊原康政には揃って10万石が与えられました。

忠勝の本拠は上総大多喜城です。

本多忠勝の肖像画

本多忠勝/wikimedia commons

房総半島には里見氏の勢力が残っており、大多喜は徳川領国の南東を守る軍事拠点でした。

数々の合戦で家康の先鋒を務め、後世においては戦国最強とも称される忠勝が、引き続き敵を抑える役割が期待されたのでしょう。

一方の康政は上野館林城へ入ります。

榊原康政の肖像画

榊原康政/wikipediaより引用

館林は北関東や奥羽方面に備え、江戸を北から守る拠点でした。

康政は城郭や城下町を整備し、軍事だけでなく領国経営でも手腕を発揮。

二人の官位は、忠勝が従五位下・中務大輔、康政が従五位下・式部大輔でした。

石高でも官位でも、ほぼ同等の処遇だったといえます。

 


家臣最高の12万石を得た井伊直政

三人より遅れて家康に仕えたのが井伊直政です。

井伊直政の肖像画

井伊直政/wikipediaより引用

直政は天正十年(1582年)の武田家滅亡後、旧臣を中心とする軍勢を預けられて赤備えを編成すると、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いではさっそく彼らも率いて奮戦し、その存在を広く知られるようになります。

そして関東移封後に与えられたのが、上野箕輪12万石でした。

小川雄氏と柴裕之氏の編著『図説 徳川家康と家臣団』でも、関東移封後の直政が上野箕輪12万石を与えられ、徳川家臣団最大の石高となったことが紹介されています。

忠勝と康政より2万石多いんですね。

しかも箕輪城は、信濃や越後方面に備える西上野の重要拠点でもあり、後に直政は高崎城を築いて交通と軍事の要衝も押さえています。

官位については最終的に従四位下に叙され、官職は兵部少輔ですから、位階では忠次と並んで四天王中最高でした。

なお、井伊直政の娘は、家康の四男・松平忠吉に嫁いでいます。

松平忠吉の肖像画

松平忠吉/wikipediaより引用

家康の実子・忠吉との婚姻を通じ、直政は徳川一門との結びつきをさらに強めました。

ただし、関東移封後の配置には豊臣秀吉の意向も働いていて、12万石だけを家康個人の評価と断定することもできません。

それでも直政が、徳川家臣の中で最大の軍勢と領地を任された事実は重いでしょう。

 

関ヶ原後に直政は18万石 直孝の代に30万石へ

四人の評価に最も大きな差がついたのは慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦い後です。

この時点で酒井忠次はすでに亡くなっています。

戦後、本多忠勝は伊勢桑名10万石へ移り、榊原康政は館林10万石に据え置かれる一方、井伊直政は近江佐和山18万石を与えられました。

佐和山は東国と畿内を結ぶ交通の要衝。

西国にいる豊臣恩顧の大名や加賀の前田家に備える徳川方の最前線でした。

 

直政の死後、佐和山城に代わる井伊家の本拠として、約2km西の彦根山に彦根城が築かれています。

直政は戦場で負傷しながら、戦後には西軍諸将との交渉や処分にも関わっていますので、家康は武勇だけでなく、外交力や調整力まで高く評価していたのでしょう。

四天王の家は、その後も石高を伸ばしました。

・酒井家は孫の忠勝が寛永九年(1632年)に14万石

・本多家は嫡男の忠政が元和三年(1617年)に姫路15万石。その後、政勝が寛永十六年(1639年)に大和郡山15万石へ転封

・榊原家は孫の忠次が慶安二年(1649年)に姫路15万石

・井伊家は次男の直孝の時代に彦根藩30万石

井伊直孝の肖像画

井伊直孝/wikipediaより引用

これにて井伊家は譜代大名の筆頭格となり「彦根35万石」と呼ばれることもありますが、領地30万石に加えて、幕府から預かった蔵米5万俵を加えた格式上の呼称です。

酒井・本多・榊原の三家が10万石を超えるも、30万石に達した井伊家の突出ぶりは明らかでしょう。

ただし、ここには家康の死後、秀忠・家光のもとで行われた加増も含まれます。

四天王本人に対する家康の評価と、後継者を含む上昇は分けて考える必要がありそうですね。

では、最後に総合評価をまとめましょう。

 

総合評価では?

四天王に対する家康の評価は、時期によって変わります。

徳川家の独立から成長期まで家臣団を率いたのは酒井忠次。

純粋な武勇と戦場での信頼なら本多忠勝。

軍団指揮と領国経営では榊原康政も引けを取りません。

しかし、最終的な石高、本拠地の重要性、徳川一門との婚姻、戦後処理まで含めると、最も重く用いられたのは井伊直政だったと考えられます。

井伊直政の銅像

井伊直政像(JR彦根駅前)photo by 戦国未来

家康に最も長く仕えた家臣ではなく、最も遅く加わった直政が最終的に家臣団の頂点へ立った。

その処遇こそ、家康から受けた評価を最も分かりやすく示しているのではないでしょうか。

なお、四天王それぞれの活躍については以下の関連記事をご覧ください。

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参考文献

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    • この記事を書いた人
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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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