茶々イメージイラスト

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豊臣家

秀吉と茶々の結婚を勧めたのは秀長だったのか?32才差の夫婦が結ばれた経緯

茶々を新たな妻に迎えてはどうだろうか――。

大河ドラマ『豊臣兄弟』第39回放送で、羽柴秀長が兄の秀吉に向かってそう提案しました。

秀吉が若い茶々に執心した――我々が知るお馴染みの展開とは正反対の今回の描き方に違和感を覚えた方は少なくないでしょう。

そうなると気になってくるのが史実の二人です。

茶々と秀吉は、実際どんな展開で結ばれたのか。

茶々イメージイラスト

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当時を振り返ってみましょう。

 


秀長が勧めたという史料はない

秀吉と茶々の馴れ初めについて。

現在確認できる史料に「豊臣秀長が結婚を勧めた」とする記述は見当たりません。

もしもそんな事実があれば以前からそうと伝わっていそうですが、最新の関連書籍でもそうした話は確認できず、ドラマ独自の設定とみるのが妥当でしょう。

では茶々と秀吉の結婚を言い出したのは誰だったのか?

ヒントは天正十一年(1583年)まで遡ります。

同年に起きた「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が敗れ、妻・お市の方と共に越前北ノ庄城で自害。

柴田勝家とお市の方の肖像

柴田勝家とお市の方/wikimedia commons

このとき城から出された茶々・初・江の浅井三姉妹を引き取ったのは、ほかならぬ羽柴秀吉でした。

 

後世の記録では秀吉から求婚

数え15才で秀吉に救出された茶々。

一連の出来事を伝えるのが『渓心院文(けいしんいんぶみ)』という文書です。

後に江戸城大奥に仕えた女中・渓心院が書き残した回想文で、同時代史料ではなく、聞き書きゆえの誤りも含まれます。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

そのまま史実とは断定できませんが、文中では「秀吉のほうから求婚した」と伝えられています。

【意訳】

羽柴殿は姫君たちを引き取って大切にし、姉君(茶々)に使者を通じて「一緒になりたい」と伝えた。

姉君は「このように親のない身になってしまったので、お頼みしたいとは思うが、まずは妹たちの嫁ぎ先を決めていただいたうえで」と答えた。

出典:「渓心院文」

茶々はすぐには応じず、妹たちの身の振り方を先に決めるよう求めたわけです。

茶々は父の仇である秀吉を憎んでいたように描かれがちですがが、そもそも小谷城攻めは信長の命令であり、北の庄城では母の市が自ら死を選んでいる。

そのため秀吉を単純に憎む関係ではなかったと、研究者の福田千鶴氏も著書『豊臣家の女たち』の中で指摘しています。

幼い妹2人を抱えた15才の茶々にとって、手を差し伸べる秀吉を頼るのは、むしろ冷静な選択だったと言えるでしょう。

淀殿(茶々)の肖像画

淀殿(茶々)/wikipediaより引用

単純に憎しみをぶつける相手ではないことぐらいわかっていたはずであり、そうした関係の中で秀吉から求婚した可能性は低くない。

では、それはいつ頃の話だったのか?

 


茶々はどんな立場になった?

二人が結婚した時期は、はっきりしていません。

福田氏は『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』の中で、秀吉が関白に就いた天正十三年(1585年)7月頃に祝言を挙げたとみています。

一方、大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である黒田基樹氏は著書『羽柴秀吉とその一族』の中で、妹の江が同年10月13日に小吉秀勝と結婚した後、茶々が秀吉と結婚したと考えています。

黒田氏の見方が正しければ、妹たちの嫁ぎ先を先に決めるよう求めた『渓心院文』の筋書きとも合致しますね。

いずれにせよ天正十三年頃のことであり、当時、秀吉は数えで49才、茶々は17才で、年の差は32もありました。

こうなると、気になってくるのが秀吉の正妻・寧々の存在でしょう。

寧々の肖像画

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

一般的に茶々は「側室」として描かれます。

しかし福田氏は著書『豊臣家の女たち』の中で、秀吉の時代には一夫一妻を前提とした「正室/側室」の区分は、まだ確立していなかったと指摘しています。

豊臣家は一夫多妻であり、茶々も秀吉の別妻の一人と捉えられた。

一方、寧々は最初の妻として秀吉家中の人々やその家族へ気を配り、豊臣家の奥向きを支える重要な役割を担っていました。

では史実の豊臣秀長と茶々の間には、何らかの接点はあったのでしょうか?

 

秀長が茶々のために整えた城

天正十七年(1589年)1月、茶々が秀吉の子を懐妊。

秀吉に呼び出された秀長は、茶々の居所となる山城の淀城で普請を始めました。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

茶々は淀城で、以下のような経緯で出産しております。

天正十七年1月30日……秀長が淀城の普請を始める

同年5月12日……普請を終えて秀長が大和郡山城へ帰還

同年5月27日……茶々が淀城で鶴松を産む

秀吉の実子誕生を控え、その居所を整えるため、一門衆筆頭の秀長が普請を担ったんですね。

なお、秀吉には茶々だけでなく他にも多くの妻がいたことが知られます。

しかもその相手が織田信長の娘であったり、前田利家の娘であったり、蒲生氏郷の妹であったり……上司・同僚・部下たちと縁の深い女性まで迎えているのです。

単なる女好きか。

それとも羽柴家と各武家を結びつけるためなのか。

そのあたりの考察は以下の関連記事をご覧いただければ幸いです。

秀吉の妻と側室
大の女好きで知られる豊臣秀吉には実際どんな側室がいた?上司や同僚の身内すら

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◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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