信長の命令で大型船を作り、毛利水軍を破ったことで勇名をはせた――九鬼嘉隆(くき よしたか)の悲劇的な最期をご存知でしょうか?
関ヶ原で敗戦後、伊勢湾の答志島(とうしじま)で自害をしたのですが、実は家康から助命を認められていました。
東軍についた息子の嘆願が受け入れられたのです。
しかし嘉隆はその知らせを受け取る前に命を絶ってしまったわけで、一体なぜそんな切ない展開となってしまったのか。

九鬼嘉隆/wikimedia commons
九鬼嘉隆の最期を振り返ってみましょう。
毛利水軍を撃破して大出世
九鬼嘉隆の名を高めたのは、やはり「木津川口の戦い」でしょう。
織田軍と毛利軍との間で起きた二度の海戦であり、第一次は天正四年(1576年)のことでした。
本願寺へ兵糧を運び込もうとする毛利水軍と織田水軍が激突し、織田水軍が大敗します。
『信長公記』によれば、能島・来島の村上水軍は「ほうろく火矢」を用いて織田方の船を焼き崩しました。
この敗戦を受け、信長は嘉隆に大船6艘の建造を命じ、完成した大船が現場へ投入されたのは、天正六年(1578年)のことでした。
嘉隆は伊勢で6艘の大船を造り上げ、堺の港へ。
現地へは、織田信長もわざわざ足を運び、一人で船に乗り込んで仕上がりを検分したといいますから、よほど期待していたのでしょう。

絵・富永商太
そして同年11月「第二次木津川口の戦い」で嘉隆の船団は毛利水軍を打ち破ります。
なぜ嘉隆は勝利できたのか。
嘉隆の作った大型船は何が凄かったのか。
この大船は、鉄で装甲された「鉄甲船」として広く知られています。
しかし、研究者の豊田祥三氏は著書『九鬼嘉隆と九鬼水軍』の中で、大船を鉄で覆ったと伝える同時代史料は『多聞院日記』に限られると指摘。
一方、大船を実見した宣教師オルガンチノは、3門の大砲と無数の長銃を備えていたと記しました。
鉄板装甲の有無は断定できませんが、当時としては突出した火力を持つ大型軍船だったことは確かでしょう。
ともかく信長の期待に応えた働きにより、九鬼嘉隆は一躍、志摩の水軍を率いる大名へと上り詰めていきました。
隠居後、石田三成に誘われて西軍へ
慶長五年(1600年)、九鬼嘉隆はすでに家督を息子の九鬼守隆に譲り、隠居の身でした。
守隆は、徳川家康の会津攻めに従って東へ。
一方、嘉隆のもとには、石田三成から西軍に加わるよう誘いが届きました。

石田三成/wikipediaより引用
嘉隆は老年を理由に一度は断るも、三成からの再三の頼みに応じ、留守になっていた守隆の居城・鳥羽城を奪って立てこもります。
父は西軍、子は東軍――九鬼家は真っ二つに割れたのです。
嘉隆は、毛利などの西軍水軍を伊勢湾に呼び込み、尾張・三河の沿岸を攻撃しました。
西へ向かう家康の目にも、嘉隆らの放火で上がる煙が見えたと伝わるほど。
9月11日には、志摩の加茂(鳥羽市)で父子の軍勢がぶつかり、守隆方にも討死する家臣が出ました。
かなりガチな戦闘ですね。
それにしても、なぜ嘉隆は息子と敵対したのか?
『九鬼嘉隆と九鬼水軍』では、家康と三成、どちらが勝っても九鬼家が生き残れるよう、あえて父子が両軍に分かれたのだろうと推測しています。
真田昌幸と信幸父子を彷彿とさせるもので、家を残すため敵味方に分かれる武家は珍しくありませんね。
そして関ヶ原の戦いへ。
助命の知らせは間に合わず
慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原で西軍は敗北。
九鬼嘉隆は鳥羽城を捨て、答志島の和具(わぐ)に身を潜めます。
一方、息子の九鬼守隆は大坂へ向かい、家康に父の助命を願い出ました。

徳川家康/wikimedia commons
福島正則や池田輝政らの口添えもあって、その願いはようやく聞き届けられ、守隆は急いで赦免の使者を答志島へ送ります。
しかし、ここで思わぬ横やりが入ります。
守隆の家臣・豊田五郎右衛門が、合戦中に守隆を裏切ろうとしていたことが露見するのを恐れ、守隆の命令と偽って嘉隆に切腹を勧めたというのです。
結果、嘉隆は使者の到着を待つことなく、慶長五年(1600年)10月12日、答志島和具の洞泉庵(とうせんあん)で切腹しました。
享年59。
京都へ送られる嘉隆の首は、その途中、伊勢の明星(めいじょう)で赦免の使者とすれ違ったとも伝わります。
知らせを聞いた守隆は、五郎右衛門を捕らえて首をはね、獄門にさらしました。
ただし、五郎右衛門の話は江戸時代の大名家の系譜集『寛政重修諸家譜』などに伝わるもので、細部は後世の伝承として読む必要があることをご注意ください。
それにしても、九鬼嘉隆はなぜ息子の働きかけを待たなかったのか。
何だか別の理由があったようにも思えてきません?
嘉隆が死を選んだ理由
いささか強引にも思える九鬼嘉隆の自害について。
研究者の小川雄氏は著書『戦国武将列伝 別巻1 織田』の中で、以下のように指摘しています。
嘉隆は西軍の水軍を伊勢湾に呼び込んで破壊を重ねた責任を自覚し、海の世界における九鬼家の信用を回復するため、死を選ばざるをえなかったのかもしれない。
『信長公記』の著者である太田牛一も、尾張・三河の沿岸で多くの寺が焼かれ、海の民が殺されたと記しており、嘉隆の最期をその報いだと評しています。
確かに、九鬼家のためには、西軍に加わった責めを自身が負ったほうがよいと、嘉隆自身が判断した可能性は否めないでしょう。
九鬼家はその後、守隆のもとで存続しました。
答志島には今も、嘉隆の胴塚と首塚、そして切腹した刀を洗ったと伝わる「血洗池(ちあらいいけ)」が残されています。
なお、九鬼嘉隆の生涯については以下の関連記事を併せてご覧ください。
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九鬼嘉隆の生涯|九鬼水軍を率いて信長・秀吉に重宝された智将の悲しき最期
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参考文献
- 豊田祥三『九鬼嘉隆と九鬼水軍――戦国最強を誇った水軍大将の興亡』(2023年9月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田』(2025年10月 戎光祥出版)

