天正十八年(1590年)10月16日は、奥州で「大崎・葛西一揆」が始まった日です。
小田原征伐に参陣せず所領を没収された大崎氏と葛西氏の旧臣たちが、新しい領主の木村吉清らに反旗を翻したのですが、この一揆で注目されるのが伊達政宗。
背後で煽っていただろ!
と、蒲生氏郷が「政宗の謀反」を秀吉へ報告すると、翌年、政宗は上洛を命じられて、対面の上で弁明に努めます。
「一揆を煽ったという書状ですが、それは本当に私のものでしょうか?」
「どういうことじゃ?」
「私の書状は、鶺鴒(せきれい)の形をした花押の目に、針で穴を開けてあるのです」
秀吉がしげしげ眺めると確かに花押に穴はなく、政宗への疑いも晴れて一件落着!――という話ですが、まるで往年の時代劇のようで、いかにもウソ臭いですよね。
この二人には他にも、白装束や金ピカ軍団など、いかにも戦国気風なド派手な話が他にもあり、果たしてどこまで本当なのか。

絵・富永商太
三つの逸話を振り返ってみましょう。
鶺鴒の目に穴は開いていた?
まずは「鶺鴒の目」の逸話から見ていきましょう。
結論からいえば、後世に作られた可能性が高いとされています。
政宗が一揆を煽った証拠として、本人の花押を据えた書状が示されると「本物なら鶺鴒の目に針穴がある」と反論――という話の出典は、後世に成立した『氏郷記』です。
研究者の佐藤貴浩氏は著書『「奥州の竜」伊達政宗』の中で、現存する政宗の花押を調べても、穴の開いたものは一つも確認できないと述べています。
つまり、秀吉を納得させたとされる決め手そのものが、他の史料で確かめられないんですね。

政宗の関与を訴えた蒲生氏郷/wikipediaより引用
ただし、穴の話が創作だったとしても、政宗が一揆を煽ったと決まるわけでもありません。
逸話の真偽と、一揆への関与は別の問題。
政宗による関与の可能性は現在も指摘されていますが、一揆はその後、他ならぬ政宗らによって鎮圧されました。
新領主の木村吉清は改易となり、葛西氏と大崎氏は旧領へ復帰できていません。
小田原へ白装束で現れた?
時間を少し戻して、同じ天正十八年(1590年)6月に注目。
小田原へ遅れて参陣した伊達政宗が、白装束(死装束)で秀吉の前に現れたというものです。
実に芝居がかった演出であり、それに対する秀吉のリアクションも素晴らしい。
政宗の首を杖で突きながら、こう言いました。
「もう少し遅ければ、ここが危なかった」
伊達政宗と秀吉といえば真っ先に浮かぶ名場面ですね。

豊臣秀吉/wikimedia commons
政宗本人が書いた手紙に、この場面は出てきません。
6月5日に小田原へ着き、参陣の遅れと蘆名氏を滅ぼした件を詰問されたうえで、会津の召し上げを受け入れた政宗。
そして9日の巳刻(午前10時ごろ)、ようやく秀吉との対面となりました。
研究者の佐藤憲一氏は著書『伊達政宗の手紙』の中で、対面直後の正午に、政宗が国元の伊達成実へ自筆の手紙を書いていることを紹介しています。
【意訳】
関白様がじきじきに、いろいろと親しく接してくださり、言葉にならないほどだ。
これほど手厚いとは、そなたたちも想像できまい
出典:天正十八年6月9日付 伊達政宗書状(伊達成実宛)
安堵と驚きがあふれる手紙であり、この書状から白装束や首を突かれた話を確認することはできません。
仙台藩の正史『伊達治家記録』でも、政宗が水引で髪を一つに結んでいたとは書いていますが、白装束とは記されていません。
では、あの名場面はどこから来たのか?
有力な出どころの一つが『関屋政春覚書』です。
同書は、後年の政宗が加賀藩主の前田利常へ語った内容を、次の間で聞いた者の話として収録。
一方、伊達成実が晩年に著した『伊達日記』では、秀吉は杖で小田原城の様子を示し、政宗へ攻め方を説明したとされます。
首を突く話とは異なる筋書きですね。
確かに、政宗が死を覚悟していたことは、本人の手紙からもうかがえますが、白装束と首の場面は、後世の記録でしか確認できません。
金ピカ軍団で京都を歩いた?
三つ目は、朝鮮出兵へ向かう伊達軍の行列です。
天正二十年(1592年)、伊達政宗は秀吉から命じられた1,500人の倍、3,000人を率いて上洛し、3月17日には徳川家康らと共に京都を出陣しました。
このときのいでたちを『伊達治家記録』が細かく伝えています。
◆伊達勢のいでたち
- 紺地に金の日の丸を描いた幟30本
- 足軽の黒い具足には、前後に金の星
- 長さ3尺(約90cm)に及ぶ金のとがり笠
- 馬上の侍は黒い母衣(ほろ)に金の半月
- 馬には豹・虎・熊の皮や孔雀の尾を飾り、黄金で飾った太刀を帯びる
このド派手ないでたちは、京都の町でも行列のなかで一番の評判になったといいます。

もちろん『伊達治家記録』は江戸時代に仙台藩がまとめた記録で、細部まで当時の史料で確かめられるわけではありません。
装備の記述が具体的であること自体は、史実性の保証にはならない。
三つの逸話の中では材料が多いものの、華麗な軍装の細部は『伊達治家記録』が伝える話として扱うのが安全でしょう。
また、天正十九年(1591年)の上洛で、死装束に金箔の十字架を担いで行進したという話もあります。
こちらは『氏郷記』に見える別の逸話で、佐藤貴浩氏は逸話にすぎないとみています。
政宗を救ったのは演出だけではない
こうして並べてみると、三つの逸話の確かさはバラバラです。
鶺鴒の穴は、花押に穴が見つからないので信憑性は低い。
白装束は、本人の手紙にも藩の記録にもなく、後世の記録だけが伝えています。
金ピカ軍団は藩の記録に装備が具体的に残っていますが、同時代史料による裏付けまでは確認できない。
果たして伊達政宗は、派手な演出と土壇場の機転だけで、秀吉を切り抜けたのか?
いえいえ、そうではないでしょう。
政宗は小田原へ向かう前から、秀吉の側近である浅野長吉や前田利家と連絡を取り続けており、会津の召し上げも対面の前に事前に知らされていたものです。

伊達政宗/wikipediaより引用
対面が終わると、その日のうちに国元へ結果を知らせてもいました。
根回しをし、相手の出方を探り、必要とあれば領地の没収も受け入れる。
そんな地道な交渉結果と言えるはずですが、それよりも派手な逸話が面白おかしく語られていくうちに、特異キャラ「独眼竜」の人物像が作られていったのでしょう。
ちなみに、派手な人を「伊達者」と呼ぶのは金ピカの行列が始まりと言われたりもします。
しかし「だて」という言葉自体、政宗の時代より前からあったとされ、語源とは言い切れません。
なお、小田原参陣については以下の関連記事をご覧ください。
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伊達と最上の小田原参陣|政宗が白装束で秀吉にひざまずいた話は本当か
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参考文献
- 佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』(2022年12月 KADOKAWA)
- 佐藤憲一『伊達政宗の手紙』(1995年7月 新潮社)
- 小林清治『伊達政宗 人物叢書』(1985年9月 吉川弘文館)

