武田信玄には「武田二十四将」がいて、徳川家康には「徳川十六神将」がいる。
では織田信長には?
そう、知る人ぞ知る「織田三十六功臣」です。
選んだのは信長本人ではなく、明治時代の建勲神社。
三十六人も入るのだったら秀吉は当然、秀長も兄弟で連なっていそうだよな……と思ったら、秀長は選外か!
明智光秀は、まぁ経緯からして仕方ないですが、信長に追放された重臣も入っていたりして、イマイチよくわからないメンツとなっています。
皆さんは、どう思うか?

織田信長/wikimedia commons
本記事で36人を確認してみましょう。
選んだのは明治の建勲神社
三十六功臣を選んだのは、京都・船岡山にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。
明治2年(1869年)、明治天皇から「信長を祀る神社を創立せよ」との宣下があり、翌年には「建勲(たけいさお)」の神号が下されました。
意外にも天皇の発案だったんですね!

建勲神社
神社の説明によれば、この創建の折に功臣36人が選ばれ、それぞれの生涯で最も知られた場面が絵に描かれて拝殿に掲げられました。
それを描いた絵師のチョイスも洒落ておりまして。
三十六功臣の一人・池田恒興の子孫である旧鳥取藩主池田家の家臣の画家でした。

池田恒興/wikipediaより引用
令和3年(2021年)には板絵から複製画へ掛け替えられ、翌年からは12人ずつ拝殿に掲げて毎年入れ替え、3年で一巡する仕組みとなっています。
ですので拝殿で一度に会えるのは12人まで。
神社を訪れたい方はご注意ください。
三十六功臣の顔ぶれ
では織田信長の家臣たち36人を、建勲神社の掲示の区分(第一期〜第三期)に沿って並べてみましょう。
第一期
池田恒興(1536〜1584年)母が信長の乳母で、信長とは乳兄弟。清須会議に宿老として加わるが、小牧・長久手の戦いで討死。
織田信光(1515?〜1554年)信長の叔父で「小豆坂の七本槍」の一人。清須の織田家を倒して甥の尾張統一を助けたが、家臣に殺害される。
織田広良(生年不詳〜1561年)信長の従兄弟。美濃攻めの最前線・十九条城を守り、斎藤勢との戦いで討死。
坂井政尚(生年不詳〜1570年)姉川の戦いで先鋒を務めたが、同じ年に近江の堅田で浅井・朝倉軍に攻められ討死。
佐久間信盛(生年不詳〜1581年)柴田勝家と並ぶ古参の重臣。本願寺攻めの責任を問われ、天正8年に追放された。
柴田勝家(1522?〜1583年)一度は信長の弟・信勝について背いたが、のちに北陸方面の総帥となる。賤ヶ岳で秀吉に敗れ、北ノ庄城で自害。

柴田勝家/wikipediaより引用
武井夕庵(生没年不詳)美濃斎藤氏から信長に仕えた右筆・奉行。毛利氏との外交にも関わり、二位法印に叙せられた。
道家尾張守(生没年不詳)尾張守山の人。息子の清十郎・助十郎兄弟は、信長から「天下一の勇士なり」と書いた旗を与えられたという。
丹羽長秀(1535〜1585年)柴田勝家と並ぶ宿老で、安土城の普請奉行。本能寺の変後は秀吉に合流し、越前などを領した。
羽柴秀吉(1537〜1598年)足軽から軍団長へ出世した出頭人。本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、天下人となる。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
平手政秀(1492〜1553年)信長の傅役(もりやく)。「大うつけ」と呼ばれた信長を諫めて自害したと伝わり、信長は政秀寺を建てて弔った。
簗田出羽守(生年不詳〜1579年)桶狭間の戦いの功で沓掛城を与えられたと伝わる。のちに加賀を任されたが、一揆を抑えきれなかった。
第二期
稲葉一鉄(1515〜1588年)美濃三人衆の一人。斎藤龍興を見限って信長につき、姉川の戦いでも勝利に貢献した。
氏家卜全(生年不詳〜1571年)美濃三人衆の一人。長島一向一揆攻めの退却戦で柴田勝家とともに殿を務め、討死。
蒲生氏郷(1556〜1595年)人質として岐阜に来た少年を信長が気に入り、娘の冬姫を嫁がせた。のちに会津の大名となる。
坂井久蔵(1555?〜1570年)坂井政尚の嫡男。13歳で敵の首を挙げ、16歳で姉川の戦いに先鋒として出て討死した。
佐久間盛政(1554〜1583年)柴田勝家の甥。加賀の一向一揆との戦いで活躍したが、賤ヶ岳で敗れ処刑された。

『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』/wikipediaより引用
佐々成政(生年不詳〜1588年)長篠の戦いで鉄砲奉行を務め、越中富山城主に。肥後の国衆一揆を鎮められず、秀吉に切腹を命じられた。
原田直政(生年不詳〜1576年)もとの名は塙直政。山城・大和の支配を任されたが、石山本願寺攻めで一族とともに討死。
平手汎秀(生年不詳〜1572年)平手政秀の三男とも孫とも。三方ヶ原の戦いに家康の援軍として出陣し、討死した。
不破光治(生年不詳〜1580年)美濃の出身。足利義昭を迎える使者を務め、前田利家・佐々成政とともに越前府中を治めた。
細川藤孝(1534〜1610年)足利義昭の側近から信長の家臣に。歌人としても名高く、本能寺の変では光秀の誘いを断った。
前田利家(1537〜1599年)赤母衣衆の一人。能登一国を与えられ、豊臣政権では秀頼の後見役として重きをなした。
森可成(1523〜1570年)美濃金山城主で森蘭丸の父。宇佐山城で浅井・朝倉軍を迎え撃ち、討死した。

森可成/wikimedia commons
第三期
猪子兵助(生年不詳〜1582年)信長の代表的な近習。軍使や検使役を務め、本能寺の変の際は二条御所で討死。
河尻秀隆(1527〜1582年)信忠の補佐役として武田攻めに功を挙げ、甲斐を与えられた。本能寺の変の直後、武田の旧臣らに殺害される。
斎藤新五(生年不詳〜1582年)斎藤道三の子といわれる。越中で上杉方を破るなど活躍し、二条御所で討死した。
菅谷長頼(生年不詳〜1582年)織田家の奉行として蘭奢待の切り取りや安土の町割りを担当。二条御所で討死した。
滝川一益(1525〜1586年)近江甲賀の出身とされ、伊勢攻略から関東方面の司令官へ。本能寺の変後に北条氏に敗れ、没落した。

滝川一益/wikipediaより引用
福富秀勝(生年不詳〜1582年)赤母衣衆から側近の吏僚に。長篠の戦いでは鉄砲奉行を務め、二条御所で討死した。
堀秀政(1553〜1590年)「名人久太郎」と呼ばれた信長の側近武将。豊臣政権でも重用され、最終的に越前の大名となる。
村井貞勝(生年不詳〜1582年)京都所司代として京の行政と朝廷との連絡を一手に担う。二条御所で信忠とともに討死した。
毛利新介(生年不詳〜1582年)桶狭間の戦いで今川義元の首を挙げた馬廻。のちに信忠に付けられ、二条御所で討死した。
森蘭丸(1565〜1582年)森可成の三男で信長の小姓。取次や使者を務め、本能寺の変で弟たちとともに討死した。
山内一豊(1546?〜1605年)妻の内助で名馬を手に入れた逸話で知られる。関ヶ原の戦いのあと、土佐一国の大名となる。

山内一豊/wikipediaより引用
湯浅甚助(1545〜1582年)信長の馬廻。本能寺の変の夜は寺の外に泊まっていたが、駆けつけて討死したという。
※生没年は谷口克広『織田信長家臣人名辞典』による
※簗田出羽守の没年は、同書で同一人物とされる簗田広正から
本能寺の変までに半数が世を去った
36人の没年を並べてみると、意外な共通点が見えてきます。
まず、信長より先に亡くなった者が少なくとも12人います。
平手政秀、織田信光、織田広良、坂井久蔵・政尚の父子、森可成、氏家卜全、平手汎秀、原田直政、簗田出羽守、不破光治、そして追放された佐久間信盛です。
そして天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変では、さらに8人が命を落としました。
本能寺で森蘭丸と湯浅甚助、二条御所で村井貞勝・菅谷長頼・福富秀勝・猪子兵助・斎藤新五・毛利新介が討死しています。

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
36人のうち、少なくとも20人が信長と同じ日か、それより前に亡くなっているのです。
「功臣」とは、天下を取った後に残った者というより、信長と共に戦い、信長とともに散った者たちの名簿でもあったのですね。
羽柴秀長と明智光秀はいない
では、誰が入っていないのか?
まず明智光秀がいません。本能寺の変を起こした張本人ですから、当然と言えば当然でしょう。
同じく信長に背いた荒木村重や松永久秀の名も見当たりません。
意外なのは羽柴秀長でしょうか。兄の秀吉は選ばれているのに、但馬攻めなどで兄を支えた秀長の名はありません。
一方で、信長に追放された重臣が一人入っています。
佐久間信盛です。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
信盛は天正八年(1580年)、本願寺攻めの怠慢などを責める譴責状を突き付けられ、高野山へ追放されると翌天正九年(1581年)7月24日に亡くなっています。
その信盛について、研究者の和田裕弘氏は著書『織田信長の家臣団』の中で、苦境の信長を裏切ることなく終始一貫して支持しており、功績第一という表現も過言ではないと述べています。
同年に追放された筆頭家老の林秀貞は、三十六功臣に入っていません。
また柴田勝家は、若い頃に信長の弟・信勝を立てて信長に背いたことがありますが、赦されて家臣となり、三十六功臣に名を連ねています。
選定の理由までは神社の説明に書かれていません。
ただ、一度背いても赦された者や追放された者は入り、最後に背いた者は入っていない、という線は引けそうです。
佐久間信盛ら、追放された重臣たちのその後は以下の記事で詳しく扱っています。
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信長に追放された重臣たちの末路|佐久間信盛・林秀貞・安藤守就はどこへ消えた?
続きを見る
姉川で父子ともに散った坂井政尚については、こちらの記事もご覧ください。
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坂井政尚の生涯|信長三十六功臣の一人 織田家に殉じた名無き功臣の働きとは
続きを見る
参考文献
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』(2017年11月 中央公論新社)
- 建勲神社「織田信長公三十六功臣」


