大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目された佐久間信盛と林秀貞、そして安藤守就の追放劇。
織田家の重臣たちが、揃いも揃って“裏切り”を企んでいたなど、本当にあり得るのか?
史実では一体どうなっているのか?
そんなふうに疑問を持たれた方も少なくないはず。
天正八年(1580年)、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就が織田家から追放されたのは事実です。
本記事では、彼らが追い出された理由と“その後”を史実から振り返ってみましょう。
佐久間信盛の場合
元亀元年(1570年)以来、本願寺との間で血みどろの石山合戦を続けていた織田軍。
時に織田信長が鉄砲傷を負わされることもあった強敵の彼らを大坂から完全に退去させたのは天正八年(1580年)8月でした。
その直後、織田家中で大きな処分が下されます。
石山本願寺攻めの総大将を務めていた佐久間信盛が8月のうちに、息子の佐久間信栄と共に織田家から追放されたのです。
柴田勝家と共に織田軍の両翼と評されるほどだった佐久間信盛がなぜ?

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
このとき佐久間に対しては「十九ヶ条の折檻状」と呼ばれる、信長自筆の文書が出されたことが『信長公記』に記されています。
ざっと内容を確認してみましょう。
◆十九ヶ条の折檻状
佐久間、おまえ、大坂の天王寺で本願寺と対峙しながら、5年間ほとんど大したことをやってなかったな。
敵が僧侶だから黙ってても降参すると思ってたんだろ?
武力で本願寺を攻め落とすのが難しかったら、なんで儂(信長)に一言の相談もしねぇんだ。
金銀でも溜め込んでいたんか?
息子の信栄も、あまりに書くことが多くて、書ききれん。
だからザッと記すと、欲深くて、気難しくて、家臣も雇わず、だらしがなく、親子揃って武士の心構えが足りてないんじゃ。
あれだけ激戦となった三方ヶ原の戦いでも、佐久間軍は誰一人として死んでないのもおかしいって。平手汎秀(ひろひで)だけ討死したのは、おまえが見捨てたからだろ。
こうなったら、おまえにもやってもらうわ。どこかの敵を制圧して、その後、それを手土産に織田家へ復帰してくれ。
それか、頭を剃って、高野山にでも行けばいいんじゃない? 月日が経てば、許されることもあるかもしれんぞ。
かなり端折って記しましたが、これでもか!というほど辛辣な内容で、しかも信長の直筆ですから、よほど腹に据えかねていたのでしょう。

織田信長/wikimedia commons
「十九ヶ条の折檻状」については以下の記事に詳細がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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信長が佐久間信盛に突きつけた「十九ヶ条の折檻状」が辛辣すぎる
続きを見る
息子の信栄は織田家に復帰
問題は、追放された後です。佐久間父子はどうなったのか。
彼らはすぐに高野山へ向かいましたが、まもなく信長から新たな命令が届き、今度は奥熊野へ転居を余儀なくされました。
こうした厳しい処分の中で、長年仕えた家臣たちにも見捨てられ、日常生活にも不自由するほど哀れな暮らし。
その後は「天正九年に紀伊・十津川の地で病没した」とか「実際は高野山で余生を過ごしながら亡くなった」という説があります。
救いがあるとすれば、息子の佐久間信栄です。
天正十年(1582年)1月になると信長に赦免され、嫡男・織田信忠の家臣としての復帰がかないます。

織田信忠/wikimedia commons
同年6月に起きた「本能寺の変」も生き延び、その後は豊臣秀吉の御伽衆として重用され、寛永八年(1631年)に76歳で没するまでの生涯を全うしました。
追放されたメンバーの中では最も平穏な最期を迎えたと言えます。
では林秀貞の場合はどうだったのか?
林秀貞の場合
佐久間父子が追い出された直後のこと。
同じ8月、今度は筆頭家老の林秀貞が追放されました。
※尾張の有力国衆であった丹羽氏勝も追放されましたが割愛
林秀貞は信長の父・織田信秀の時代から仕えていた重臣中の重臣で、春日井郡西春(現・愛知県北名古屋市周辺)一帯一帯に大きな勢力を誇る重要な一族でした。
しかし、信長が家督を継いだ頃の林秀貞は、信長の弟・織田信勝につき、弘治二年(1556年)8月の「稲生の戦い」で信長軍と戦っています。
それを信長が、突如蒸し返したのです。
「あのころ、儂が苦しいときに、おまえ、敵に回っていたよな」
実に24年も前のことを持ち出され、林秀貞本人が最も驚いたのではないでしょうか。
結局、そのまま追放されてしまいました。

信長研究の第一人者である谷口克広氏は著書『信長と消えた家臣たち』の中で信長のことを、いったん受けた恨みをなかなか忘れられないタイプだったのではないか、と評しています。
ただし、この追放劇はそれだけでは説明しきれません。
実は稲生の戦いでは、柴田勝家も林秀貞と共に信長と戦っていましたが、勝家は北陸方面軍の長として重要な位置に置かれたままでした。
要するに、勝家はまだ“使える”と判断されたのでしょう。
一方、働きが少ないにもかかわらず、禄の多い古参の重臣たちは一斉にリストラされてしまった、と考えるのが自然かもしれません。
では、追放された林秀貞は何処へ行ったのか?
明確な史料は残されていませんが、その2ヶ月後の天正八年(1580年)10月15日に没したと伝わります。
長年積み上げてきた地位を一瞬にして失い、生きる気力を失ったのかもしれません。
安藤守就の場合
林秀貞と同時期に追放されたのが、美濃三人衆の一人・安藤守就です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では羽柴秀長の義父という立場ですが、あくまで創作上の設定。

史実上、羽柴家との縁は確認できない前提で話を進めると、織田家を追い出された安藤守就は「遠流に処さる」と『当代記』には記されています。
「武田信玄と内通した」というのが『当代記』における追放の理由です。
しかし史実かどうかは疑わしく、実際、織田家を追放された安藤守就は美濃の近辺で暮らしていたと目されます。
なぜなら、天正十年(1582年)6月「本能寺の変」で信長が討たれると、その数日後、安藤守就と安藤定治の親子は、美濃の北方城などを拠点に旧領回復を狙って挙兵をしているのです。
美濃に住んでいなければ、とてもそんな素早い動きはできなかったでしょう。
しかし、親子を待ち受けていたのは厳しい現実でした。
美濃三人衆の盟友だったはずの稲葉一鉄に攻められ、安藤父子は天正十年(1582年)6月8日に討死してしまうのです。

稲葉一鉄(稲葉良通)/wikimedia commons
稲葉一鉄にしてみれば、自身の領内を荒らされるわけにはいかず、討伐は当然の判断だったのでしょう。ただ、かつての同僚を討つ後味の悪さは残ったはずです。
その後、安藤守就の月命日に、稲葉一鉄が法要を営んでいたという伝承が残されています。
まとめ
なぜ織田信長は天正八年(1580年)、古参の重臣たちをまとめて追放したのか?
やはり最も手強い敵だった本願寺を制圧したことが大きかったのでしょう。
畿内の要衝が落ち着いたことにより、本願寺(石山合戦)に費やされていた織田軍を新たな戦地へ向けることができるようになった。
そこで、
・家中の軍団再編を一気に進めたい
・大して働きのない重臣から将兵を召し上げて新たな戦地へ向けたい
と考えたのではないでしょうか。
その一例として、佐久間軍団の与力だった近江衆は信長の直臣に組み込まれ、尾張衆は織田信忠の配下となっています(和田裕弘氏『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』)。
織田家に古くから仕えているだけでは評価されず、逆に武功を挙げれば羽柴秀吉や明智光秀のように出世もできる――そんな信長体制をあらためて強く打ち出したとも言えます。

明智光秀/wikimedia commons
もっとも信長の急激な人事や軍団再編は、配下の者たちに強い緊張を与えかねません。
実際、天正五年(1577年)には松永久秀が、天正六年(1578年)には荒木村重が離反しており、織田政権では常に内部の不安定さも抱えていました。
結果、天正十年(1582年)6月に本能寺の変が起きたのだとしたら?
その原因を一つに絞ることはできませんが、信長の急激な改革と厳しい処分が、家中にストレスを生んでいたことは見逃せないでしょう。
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信長が佐久間信盛に突きつけた「十九ヶ条の折檻状」が辛辣すぎる
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参考文献
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(2007年7月 中央公論新社)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(2017年2月 中央公論新社)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』中川太古 訳/KADOKAWA
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』(2024年6月 戎光祥出版)

