派手好きで気前のよい豊臣秀吉と、質素でケチな徳川家康。
上司にするならどちらが良い?
なんて調子でよく対比される二人の天下人ですが、実際のところどうなのか。
秀吉の有力家臣には20万石前後の大名がずらりと並び、五大老クラスともなれば100万石、200万石と、もはや天下人に迫る勢いです。
一方、家康は、譜代の重臣でも10万石前後が主力。
それでも政権の寿命を考えれば、圧倒的に徳川の勝利となりますよね。
結局、給料の多い少ないは、人や組織を安定させる要因とはならないのか。
実際の二人はどうだったのか。

豊臣秀吉と徳川家康/wikimedia commons
秀吉と家康が家臣に与えた石高から、豊臣政権と徳川政権の違いを振り返ってみましょう。
秀吉と家康の有力家臣はどれほど違った?
まずは、秀吉の晩年に有力家臣たちが持っていた所領と、家康が関東に移ったときの譜代の所領。
両者の比較から始めてみましょう。
◆家康の譜代(天正十八年・1590年の関東入国時)
井伊直政:上野箕輪(のち高崎)12万石
本多忠勝:上総大多喜 10万石
榊原康政:上野館林 10万石
酒井家次:下総臼井 3万石
時期は同じではありませんが、両者が有力家臣へ与えた所領の傾向は見えてくるでしょう。
秀吉は約2倍!

豊臣秀吉/wikimedia commons
ただし石高は収入だけではありません。
軍役負担の目安にもなっており、大名がどれほどの兵力を動員できるかを測る数字でもありました。
研究者の本郷和人氏は著書『インテリジェンス関ヶ原』の中で、秀吉は高い報酬で人を集め大量の兵を動かし、驚異の速さで成果を上げたことから「高コスト体質」とし、家康政権を「低コスト体質」と表現しています。
徳川家のように代々仕えてきた大規模な譜代層を持たない秀吉は、高い恩賞で人材を集めるしかなかった。
ゆえに一歩間違えば非常に危険な状態に陥る。
例えば……。
秀吉が気前よく領地を与えた相手は、自分の家臣だけだったのでしょうか?
秀吉は家康に250万石を残した
そうではありませんよね。
前述の通り、五大老には100万石クラスの毛利輝元や上杉景勝がいて、家康は約250万石。
秀吉の直臣とは桁が違います。
秀吉は、徳川・毛利・上杉などの有力大名に大きな所領と当主を残し、臣従させることで天下統一を進めました。
本郷氏は、秀吉の家臣でありながら自分の領国では君主のままでいる大名を「同盟的臣従者」と呼んでいます。
その代表が、ほかならぬ徳川家康です。

徳川家康/wikimedia commons
それでも有力大名の軍勢を豊臣政権の戦争へ動員し、全国統一を進めましたが、それは非常に危うい基盤の上に立っていました。
秀吉一人の政治力に支えられていたのです。
秀長も秀吉を補佐しましたが、天正十九年(1591年)に亡くなります。
その秀吉までいなくなれば、徳川・毛利・上杉などの巨大な大名が豊臣家を脅かしかねません。
なのになぜ豊臣家の家臣の中に、家康と張り合える大名はいなかったのか?
豊臣直臣だけで家康に対抗できた?
秀吉の直臣は、徳川の譜代よりたしかに大きな所領を持っていました。
しかし加藤清正も福島正則も石田三成も20万石前後。
単独の領国規模では、約250万石の家康に大きく及びません。
慶長五年(1600年)、石田三成や大谷吉継らが家康に対抗して挙兵すると、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入りました。

毛利輝元/wikipediaより引用
本郷氏は、19万石の三成では諸大名がついてこないため、輝元のような大大名を担ぐ必要があったと指摘しています。
もちろん、石高だけで西軍の顔ぶれが決まったわけではありません。
少なくとも、豊臣直臣の中に家康と同規模の領国を持つ大名はいません。
もっとも家康が誰に対してもケチだったわけではありません。
譜代に対しては確かに渋いですが、他は必ずしもそうではなく、うまく使い分けていると言える。
では、どんな待遇を用意したのか?
譜代の石高を抑えた家康は何を与えた?
研究者の藤井讓治氏は著書『徳川家康 人物叢書』の中で、関ヶ原前後に家康へ服属した外様大名は52人、その石高はあわせて422万石にのぼったと述べています。
◆関ヶ原後に加増された主な外様大名
黒田長政:豊前中津 18万石 → 筑前福岡 52万3000石
池田輝政:三河吉田 15万2000石 → 播磨姫路 52万石
加藤清正:肥後熊本 19万5000石 → 51万5000石
福島正則:尾張清須 20万石 → 安芸広島 49万8000石
一方、前述の通り譜代への加増は控えめですよね。
井伊直政は12万石から近江佐和山18万石へ、本多忠勝は同じ10万石のまま伊勢桑名へ移されています。

井伊直政(左)と本多忠勝/wikipediaより引用
ただし彼らが配置された佐和山や桑名は、畿内と東国を結ぶ要衝でした。
京都所司代には板倉勝重を、長崎奉行には家臣の小笠原一庵を置き、重要拠点の役職も自分の家臣に握らせています。
本郷氏も、三河以来の家臣たちには石高が高くなくても、徳川家の中で高い「家格」が与えられたと指摘しています。
外様には戦功に応じて大領を与える一方、政権運営と交通の要所は譜代で押さえる。
家康の配分は、ただの節約ではありませんでした。
非常に計算高いとも言える。
では、二人の配り方の違いは、結局どこに行き着いたのでしょうか?
秀吉と家康を分けたもの
秀吉は領地と報酬で人を集め、自分の政治力で巨大な大名たちを束ねました。
一方の家康は、譜代の所領を抑えながら、家格と役目と配置で徳川家を支える組織を整えていきます。
秀吉の仕組みは「自分がいる間は効率的に動く仕組み」であり、家康の仕組みは「自分が死んでも家が残る仕組み」だったと言えるでしょう。
もちろん、豊臣政権が崩れた理由はこれだけではありません。
幼い秀頼に後を託すしかなかった後継者の問題、長期化した朝鮮出兵が政権と諸大名に与えた負担、そして何より秀吉一人に集まりすぎた権力が大きく響いています。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
石高の配り方は、その弱点がどこにあったのかを映す材料の一つでしょう。
秀吉と家康を分けたのは、派手か地味か、気前がよいかケチかではありません。
秀吉は自分の力量で人を束ね、家康は自分が死んでも残る「家と組織」を作った。
家臣へ与えた石高の差には、二人が目指した政権の違いが表れていました。
なお秀吉の生前からその死まで、豊臣家を内側から支え続けたのは誰だったのか?については、以下の記事で扱っています。
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豊臣家を最も長く支えたのは誰だ?秀長でも石田三成でもなかった
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参考文献
- 本郷和人『インテリジェンス関ヶ原』(2026年6月 文藝春秋)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書』(2020年1月 吉川弘文館)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(2015年1月 東京堂出版)
- 山田貴司『加藤清正』(2014年11月 戎光祥出版)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)

